[#表紙(表紙.jpg)] ワンナイトミステリー 「倫敦の霧笛」殺人事件 吉村達也 [#改ページ]   眠れない夜に──    ワンナイト ミステリー [#改ページ]    1  上信越自動車道の碓氷軽井沢《うすいかるいざわ》インターに近づくにつれて、ヘッドライトの前に泳ぎ出してくる霧はますますその濃さを増していった。これだけ深い霧に包まれると、前方をゆく車のテールランプも、後続車のヘッドライトも見えず、自分ひとりだけが異次元の世界をさまよっている気分になる。  対向車のヘッドライトがときおり右前方にボワッと浮かんでは、霧の中で拡大する光の球となり、それが最大限に膨らんだところで、スッと闇《やみ》の中に消えていく。そしてまた四方から霧と闇がどっと押し寄せてきた。その繰り返し——  やがて、目的の出口を示す緑色の標識が、まとわりつく霧のヴェールをほどきながら左前方に現れた。  碓氷軽井沢出口。 (ロンドンでもサンフランシスコでも、ここまですごい霧は経験しなかったな)  車のハンドルを握る精神分析医《サイコセラピスト》の氷室想介《ひむろそうすけ》は、慎重に速度を落としながら高速道路の出口へと車を誘導した。  海外生活の長い氷室は、霧の都と呼ばれる世界の都市でさまざまな濃霧に出会ってきたが、それらと比較しても今夜の軽井沢の霧は特別だった。本線から料金所へのカーブにさしかかると、いちだんと霧は濃密になり、円弧を描くヘッドライトは、白いミルク色の気体をさらに白く染めながらかき回すばかりで、ガードレールを捉《とら》えるのも困難だった。  氷室想介愛車のボルボは、京都|嵯峨野《さがの》の自宅に置いたままだった。東京から京都へと仕事の拠点を移した氷室は、この一週間、サイコセラピーの国際学会に参加するためにひさしぶりに東京で長逗留《ながとうりゆう》をしていた。その東京から急遽《きゆうきよ》軽井沢へ向かわなければならなくなった彼は、警視庁捜査一課の田丸巌《たまるいわお》警部から個人的に国産自家用車を貸してもらっていた。その大切な借り物を誤ってガードレールなどにぶつけるわけにはいかないから、氷室は慎重のうえにも慎重になった。アクセルペダルを踏んでいた右足は、いまはブレーキペダルの上に載せっぱなしである。  濃縮された霧に閉じ込められると、あたかもいまは深夜であるかのような錯覚に陥るが、ダッシュボードの時計は、まだ夜の六時すぎであることを示していた。晩秋の日はとっくに沈んでいたが、都会の駅ではサラリーマンの帰宅ラッシュがはじまったばかりで、夜の街のにぎわいもこれからが本番という時刻である。だが、軽井沢の高原へと通じる山あいは、深い霧に包まれてすべての光と音を失った別世界となっていた。  料金所ゲートの明かりも、直前になってようやくはっきり見えてきた。支払いのために運転席の窓ガラスを下ろすと、湿った微粒子がうねりながら舞い込んできて、氷室の頬《ほお》を冷たく撫《な》でた。 「はい、ごくろうさまです」  料金所の係員の声も、発せられたとたんにスッと消えていく。闇に浮かぶ白い微粒子が吸音材となって、まったく余韻がなくなっていた。 「見通しが悪いから気をつけて」  その声に送られて、氷室はふたたび車のアクセルを踏み込んだ。ここから軽井沢の高原地帯に出るまでは、もうしばらく山あいの曲がりくねった道を走らねばならない。霧は、さらにさらに深く濃いものになることが予想された。 (氷室先生、助けて)  数時間前、東京で受けた電話の声が……真に迫った恐怖に怯《おび》える女性の声が、いま氷室の耳元によみがえっていた。 (私、このままでは呪《のろ》い殺されてしまいます。あの女の幽霊に) [#改ページ]    2  三カ月前の八月下旬、氷室想介のカウンセリングを受けるため、わざわざ東京から京都までやってきた一組の夫婦がいた。どちらもまだ若い。  夫の名前は岡島真佐之《おかじままさゆき》。三十歳。旅行会社の海外ツアー添乗員。  妻の名前は岡島|瑛子《えいこ》。二十六歳。昨年暮れまで携帯電話会社の営業窓口に勤務。  結婚して二年足らずだから新婚といってもよい。だが仕事柄、夫は毎日妻の待つ家に帰るという生活ではなかった。岡島真佐之は学生時代にロンドンに留学経験があり、英語も堪能《たんのう》であったため、添乗員として英米方面へ出かけるツアーを主に担当しており、日本を空けることが多かったのだ。  そのせいもあって、瑛子は結婚後もしばらくは携帯電話会社の勤務をつづけていた。それは淋《さび》しさを紛らわすためだけでなく、経済的な理由もあった。ひとり娘の瑛子は、結婚する三年前に父と母を相次いで亡くしており、一方の真佐之も両親はすでにおらず、たがいに実家の経済的援助をアテにできる立場になかった。だから、埼玉県|和光《わこう》市に借りているマンションの家賃を払ってしまえば、真佐之の給料だけでは残りがいくらもない。そんなギリギリの生活をするのは不安だったから、瑛子は専業主婦には収まらず、以前の職場で働きつづけていた。  ところが——  結婚から一年少々がすぎた昨年の夏、ふたりの身に予想もしない事態が起きた。瑛子の唯一の身内といってもよい父方の叔父《おじ》夫妻が台風による土砂災害で命を奪われ、子供のいないふたりの財産すべてが、瑛子に相続されることになったのだ。瑛子の父と違って叔父はかなりのやり手で、不動産や株式、それに預貯金が相当額あり、相続税を差し引いてもなお十億を超す財産が瑛子の手元に残った。  身内の不幸を喜ぶのは不謹慎だとわかってはいたが、瑛子としては、突然バラ色の人生が目の前に開けた気がした。夫の真佐之も、妻の相続する資産の大きさを知ったときには驚いたと、正直な感想を氷室に語った。  一夜にして「お金持ち」となった瑛子は、すぐに生活を変えた。まず第一に、遺産相続からしばらく経った去年の十二月中旬に、勤め先の携帯電話会社を辞めた。もう共働きなどする必要がなくなったからである。それでも瑛子は、しっかりと冬のボーナスだけはもらって辞めることにした。だから退職がその時期になった。  変化の第二は、住居の劇的なレベルアップだった。瑛子の希望によって、埼玉県の小さな賃貸マンションから都内|世田谷《せたがや》区にあるゴージャスな分譲マンションへと移ることになった。平凡なサラリーマンである真佐之には、自力では永遠に手に入りそうもない豪華な物件で、もちろん名義は瑛子のものである。  一方、岡島のほうの暮らしは、住まいのことを除けば何も変わらなかった。妻に莫大《ばくだい》な遺産が転がり込んできたあとも、彼は勤めを辞めることもなく、いままでどおり海外ツアーの添乗員として働き、日本を留守にする日々が相変わらず多かった。  ただ、彼も瑛子が会社を辞めた直後の十二月中旬には特別に九日間の休みを申請し、妻といっしょにロンドンの旅に出た。それは会社勤めを終えた瑛子にとって、新しい生活パターンに入る前の、いわばリフレッシュ旅行の意味合いもあった。  ロンドンに留学経験を持つ岡島にとっては、そこは外国というよりも第二の故郷《ふるさと》といってもよい場所だったが、初めてイギリスの地を踏んだ瑛子にとって、冬のロンドンは、気分転換の場所とするにはあまりにも天気が悪すぎた。冷え込みはさほどでもなかったが、市内には連日深い霧が垂れこめ、独特の陰鬱《いんうつ》な雰囲気を醸し出していた。そしてその霧が夜に入るといちだんとそれは濃さを増してゆく。そんな天候のロンドンで、瑛子は恐怖体験の第一歩を踏み出した。  それからおよそ八カ月、氷室想介のもとへ夫に連れられてやってきた岡島瑛子は、明らかにふつうではない部分があった。まず、真っ先に氷室が気づいたのは、瑛子の瞳《ひとみ》が落ち着きなくしじゅう動くこと、それから湿度差に敏感な女であるという点であった。温度《ヽヽ》差ではない、湿度《ヽヽ》差である。 「このお部屋、少し乾燥しすぎていませんか」  夫の後ろから氷室想介カウンセリングオフィスに入ってきた瑛子は、すすめられた応接セットに座る前に、いきなりそんな言葉を口にした。ぱっちりとした目が湿度センサーの機能でも持っているかのように、きょろきょろと左右に動いていた。 「乾燥しすぎ……ですか?」  氷室は、やや戸惑ってきき返した。  皇居を望む東京日比谷から一転して京都御所の北、同志社大学の裏手にあるインテリジェントビルの五階に拠点を移し、『氷室想介クリニック』から『氷室想介カウンセリングオフィス』と名前も変えた新しい仕事場は、その中にいるかぎりでは古都を意識させる和風なイメージはどこにもない。空調は快適に行き届き、ヒーリング音楽の調べが気にならない程度のボリュームで静かに流れていた。  この新しいオフィスに移ってから、氷室もアシスタントの川井舞《かわいまい》も部屋が乾燥しすぎると思ったことは一度もなかったし、相談に訪れた客からとくに指摘されたこともない。まして季節は八月下旬、三方を山に囲まれた京都盆地の残暑はまだまだ厳しく、湿気も多くて空気の乾燥が気になるような状況ではなかった。  だから、乾燥しすぎていないかという岡島瑛子の言葉に氷室は違和感を覚えたのだが、夫の真佐之がちょっとバツの悪そうな顔で横から口を挟んだ。 「妻の言ったことは気になさらないでください。ぼくと最初に個人的な会話を交わしたときも、同じセリフからはじまったんです。そりゃあたりまえだって笑ったんですけどね。なにしろそこは、空気がカラカラに乾燥しているヨセミテ国立公園だったんですから」  そして岡島は妻の袖《そで》を引っぱって、自分の隣のソファに腰を下ろさせた。が、それでもなお瑛子は鼻をくんくんさせたかと思うと、半袖のジャケットから出た腕をさすったりする。  その様子を視野の片隅にとらえた岡島は、氷室に向かってそっと肩をすくめた。おわかりですか、家内はこんな調子なんですよ、と目で語っていた。氷室も視線でそれにうなずき返し、最初に電話で相談を持ちかけてきたときに岡島から告げられた事情を頭の中で反芻《はんすう》していた。  昨年末のロンドン旅行でテムズ川沿いの小さなホテルに滞在したとき、岡島夫妻が泊まったちょうどその部屋で、二十年以上前に若い英国人女性が恋人にナイフで惨殺される事件が起きていたことがわかった。犯行に使用されたのはサバイバルナイフで、ざっくりと切り込まれた首が頸椎《けいつい》だけでつながっているような凄《すさ》まじさだったという。  その惨劇の被害者となった赤毛の女性の亡霊が、深夜現れて瑛子にまとわりつくようになったというのである。しかも、霊は瑛子がロンドンを離れて日本に戻ってからも、霧の夜が訪れるたびに彼女を苦しめつづけた。そのおかげですっかり心身のバランスを崩してしまった、というのが氷室想介のカウンセリングを受けにきた岡島瑛子の背景だった。  だが、肝心のロンドンの出来事を詳しく語る前に、岡島真佐之は、イギリスではなくアメリカにあるヨセミテ国立公園の話題を持ち出してきた。添乗員とツアー客という立場でアメリカ西海岸の旅に出たふたりが、初めておたがいを個人的に意識するようになった思い出の場所がヨセミテ国立公園であるといういきさつを、まず最初に説明しはじめたのである。  氷室は、精神的に苦悩している当事者の妻と早く一対一の会話をはじめたかったが、夫のほうが自分の職業知識を披露するように立て板に水で語り出した。 「私たちの出会いの場となったヨセミテは素晴らしいところでした。サンフランシスコから車で約五時間ほど内陸へ走ったところにあるんですが、ひとくちに国立公園といっても、なにしろ面積は東京の一・六倍ですからね、スケールが日本とはケタはずれに違うんですよ」  氷室想介はかつてアメリカのロサンゼルスやニューヨークに長く居住し、そこで精神分析医としてのスタートを切ったため、アメリカの地理にも非常に詳しい。もちろんヨセミテ国立公園に関しても、滝がもっとも水量豊富で美しい五月のころに、そこでキャンプを張って過ごしたこともある。そういった氷室のバックグラウンドを知らない岡島は、ツアー客に解説する調子で細かな説明をつづけた。 「それくらい広い国立公園ですが、観光客が大挙して押しかけるのは、じつは面積にして全体の一パーセント以下しかないヨセミテ渓谷に集中しています。この渓谷なんですが、太古の時代には平らな地形で、そこにマーセド川が蛇行しながら流れていました。ところがこんなふうに」  そこで岡島は、背広の内ポケットから一枚の紙を取り出した。ファックスで受け取った氷室の京都オフィスまでの道順説明図である。  何をするのかと氷室が見ていると、彼はA4サイズの紙を真ん中から二つ折りにして、指で強くしごいて筋目をつけた。そしてそれをふたたび広げてから、折り目の一方の端を持ち上げて傾けた。 「ある時期から渓谷の東側、つまりマーセド側の上流で造山活動が活発になり、シェラネバダ山脈となる山塊が隆起してきたため、強い傾斜がついたマーセド川は、しだいに直線部分の多い急流となります。氷室先生、この折り目が直線化したマーセド川だと思ってください。その急流の浸食作用を繰り返すうちに、渓谷はしだいに深いV字型を刻むようになります」  岡島は、折り目を中心にして紙が深いVの字になるように二つ折りの角度を狭めた。 「三百万年前ぐらいまでは、このようにヨセミテもグランドキャニオンのような典型的なV字型渓谷でしたが、およそ百万年前に訪れた氷河期になると、この渓谷は上の縁いっぱいにまで厚い氷に満たされます。その厚みはなんと九〇〇メートルにもなったんです。それだけ重い氷が渓谷に堆積《たいせき》すると……さあ、どうなりますか、氷室先生」  氷室にはその答えがわかっていたが、とりあえずは岡島に好きにしゃべらせるため、わからないというふうに首をひねった。すると岡島は、得意げな表情でつづけた。 「氷の重みで渓谷はこうなるんです」  岡島はV字のクセがついた紙を左の手のひらに載せ、右手で拳《こぶし》を作ると、歯を食いしばりながらその拳で折り目部分をギュッ、ギュッと圧《お》し潰《つぶ》していった。  右手の拳と左の手のひらの間で圧迫されて、紙についていた鋭角のV字がゆるやかなU字型の折り目に変化した。 「こんなふうに谷底は丸みを帯びてV字型からU字型に変化します。そしてU字型渓谷の特徴として、側面はストーンと切り立った断崖になるんです」  岡島は、VからUの形に変わった紙の断面を氷室に見せた。  その隣で、妻の瑛子はしきりに唇を舐《な》めていた。ここの空気は乾きすぎていると訴えたい表情で。 「こうした過程で誕生した標高差一〇〇〇メートル級の断崖や特徴的な形状をした花崗岩《かこうがん》ドーム、そして世界有数の落差を誇る雄大な滝の数々に囲まれたヨセミテ渓谷には、全米から多くの人々がやってきます。たんなる観光だけでなく、ハイキング、サイクリング、キャンプ、ラフティング、乗馬といったアクティビティを楽しみにね。そうだ、忘れちゃいけないのがロッククライミングです」  忘れちゃいけない、というセリフ回しまで、最初から忘れずに用意されている感じだった。 「エル・カピタンと名付けられた花崗岩の一枚岩は、谷底からそそり立つ岩の高さがなんと一一〇二メートルもあって、どんなベテランでも、この絶壁を登りきるには二日から三日かかるんです。ロッククライマーにとっては聖地のようなところですよ」  岡島真佐之という男には、いったんしゃべり出したら止まらない傾向があるのは、電話における事前ヒヤリングですでに氷室が感じていたことだった。じかに会ってもそれは変わらず、妻の精神面に関する相談できたはずなのに、岡島はアメリカの国立公園の話を次から次へとまくし立てた。 「このようにヨセミテはメジャーな観光地ですから、サンフランシスコからバスでやってくる日本人の団体ツアーも少なくありません。ただし、公園内の宿泊施設は半年以上前から予約申し込みが殺到するうえに、カリフォルニア・パーラー・カーといった特定業者を通じてでないと予約が取れないものですから、日本からきた客の大半は、日帰りツアーに参加することになります。しかしこれは、五時間かけてサンフランシスコからやってきて、雄大な景色の中にほんの三時間ばかりいて、また五時間をかけてサンフランシスコに戻るという、きわめて効率の悪い観光です。たったの三時間ですよ、氷室先生、三時間」  岡島は、指で三という数字を作って強調した。 「しかもその三時間のうちの一時間は、輪ゴムで止めた二段重ねの容器入り幕の内弁当と缶入りウーロン茶のお決まりセットによる昼食タイムでつぶれてしまいます。添乗員の私が言うのもナンですが、あれはなんとかならないかと思いますね。バスからぞろぞろとお弁当持って日本人の団体が下りてきて、ヨセミテ・ロッジの中庭でいっせいに幕の内を広げるという光景は、滑稽《こつけい》を通り越して無気味ですよ。で、残り二時間のうち、買い物タイムで三十分でしょ。ほんとはヨセミテ・ヴィレッジというショップに行けば品揃《しなぞろ》えも豊富なんですが、そこへ客を連れていくともう買い物だけで終わっちゃうから、ロッジの小さな売店へ連れていくんです。売店はここだけしかありませんと嘘《うそ》をついてね。それでも三十分は使ってしまう。  けっきょく観光に費やせる時間はたったの一時間半あるかないかですよ。一時間半で何ができますか、氷室先生。渓谷の限定されたエリアを周回しているシャトルバスでぐるっと一回りするだけで五十分かかるんですから、歩きだったらヨセミテ滝の下まで行って帰ってそれでおしまいでしょ」  そこで岡島は、まいったもんだというふうに肩をすくめて笑った。  その態度には、海外経験の豊富な人間によくありがちな、同胞日本人を見下すニュアンスがたっぷりと込められていた。  それから岡島の笑顔が独特のムードを醸し出すことにも、氷室は気づいていた。岡島は、口角と呼ばれる唇の両端部分がくるっと巻き上がる特徴的な形をしていた。このため、本人は無表情のつもりでいても、つねにニヤッと笑っている印象を人に与えた。マンガでは愛嬌《あいきよう》ある口もとの描き方として常道の形だが、それが生身の人間に移植されると、かなり違和感のあるものになった。  笑うと恐《こわ》い——そういう顔立ちを、岡島真佐之はしているのである。 「でね、私はそういうツアーをお客さんにはすすめたくなかったから、独自にスペシャルツアーを企画したんです」  ソファに深く腰掛けた岡島は、足を組み替えてつづけた。 「ヨセミテには、現地に住みつづけて四十年になるヒデという日本人の老ガイドがいましてね。彼の協力を得て、カレー・ヴィレッジ内のテントキャビンを確保して、泊まりがけでサンライズツアーというのをやるんです。地元アメリカのツアーでも、ヨセミテのパノラマを眺めるためには標高二一九九メートル、高度差九八八メートルのグレイシャー・ポイントまでしか行きません。しかも朝九時半ぐらいにそこへ着くスケジュールだから、そのころには展望台は観光客で混雑しています。けれどもヒデのサンライズツアーは、標高二四七七メートルのセンティネル・ドーム——日本語に訳せば『歩哨台《ほしようだい》』という意味のお椀《わん》を伏せた形の花崗岩ドームへ夜明け前に登って、そこでご来光を拝むんです。多少くたびれますけど、素晴らしいですよ、これは」  添乗員という職業柄なのだろう、岡島は標高などに関する細かな数字をスラスラと口にした。 「そのヒデというガイドは頭はもう真っ白なんですけどね、歩くのが速すぎると文句を言いたくなるぐらい元気なじいさんで、車なんかも飛ばす、飛ばす。キキキキーって、タイヤの鳴る音を口で出しながらガードレールのない山道をぶっ飛ばすところなんぞは、ほとんど十代の若者ですよ。何十年も前からあんな調子だったんでしょうねえ。でも、長生きしているぶんヨセミテの植物や動物、それにハイキングトレイルに関しては生き字引で、私も添乗員という立場からずいぶん勉強させてもらいました。ただ『ここはセンティネル・ドームで、あれがハーフ・ドーム。その向こうに見えるのが東京ドームで、そこから順にナゴヤドームに福岡ドーム』なんて、一日十回以上も同じダジャレを繰り返すのはどうにかならないかと思ったんですがね、あはは」  岡島は、ひとりで面白《おもしろ》そうに笑った。隣の瑛子は、依然として落ち着きのない視線の動きをしている。大きな目を見開いて、広いカウンセリングルームのあちこちに目を走らせているのだ。しかし岡島は、なかなかヨセミテの話題を終えようとはしなかった。  人が口数が異様に多くなるときは、それなりに理由がある。知識をひけらかしたり自慢をするときにも多弁になるが、照れたときや心に疚《やま》しさを秘めたときにも人は口数が多くなる。では、岡島の場合はどうなのか。そのことを氷室が推し量っているうちに、彼は、のちに事件解決の重要な手がかりとなるエピソードにふれてきた。 「このヒデ老人のサンライズツアーは、ご来光だけでなく、ほかにも売り物があって、それがブライダルヴェール滝《フオール》での結婚祈願なんです」 「ほう、ブライダルヴェール・フォールですか」 「あれ、氷室先生もあの滝をごぞんじなんですか」 「ええ、若いころヨセミテでキャンプをしたときに、そこにも行きましたよ」 「そうかあ、それは知りませんでした。だったら話が通じやすくていいな」  そろそろ話を本筋に戻したいと思った氷室は、自分も共通の知識があることをほのめかした。それによって、岡島の多弁を封じようと思ったのだが、その作戦はかえって裏目に出た。 「じゃ、先生もご承知かと思いますが、ヨセミテ渓谷は非常に硬い花崗岩で形成されているために、数百メートルの落差を持つ滝であっても、滝壷《たきつぼ》というものができない」 「なだれ落ちる水のエネルギーが、岩の硬さに負けてはじき返されますからね」 「そのとおり。そのため、硬い岩盤に叩《たた》きつけられた滝は、猛烈な水しぶきをあげることになります。春から夏のヨセミテではめったに雨が降らず、空はつねに青く晴れ渡っていますが、澄み切った晴れの日ですら、滝に近づくと空気中に浮かんでいる霧状の微粒子によって、青いはずの空が白っぽく見え、摂氏三十度を超す暑い日でも滝のそばだけはひんやり感じるほどです。  この水しぶきが、まるで花嫁のかぶるヴェールのような形を成すために、ブライダルヴェール——『花嫁のヴェール』と呼ばれる滝があります。落差は一八九メートル、じつに華厳滝《けごんのたき》の倍近くもあるんですが、それでもヨセミテ渓谷の滝の中では大きいうちに入りません。その滝が生み出す水の霧が、じつにエレガントで美しい。そして、その花嫁のヴェールにいっしょに包まれた恋人たちは……」 「永遠の愛を結ぶことができる」 「よくごぞんじで、氷室先生」  もともとニヤッと笑っている形の口もとに、さらにはっきり笑みを浮かべて岡島はうなずいた。 「ブライダルヴェール・フォールには、そういういわれがあります。だから、そこを見学スポットに入れると、若い女の子にウケるんですよね。あそこは大型観光バスを停めておくスペースがないから、センティネル・ドームと同じように団体ツアーはやってきません。小グループの観光客だけが集う、とてもいい雰囲気の場所なので、女性のお客さんにはとても喜ばれます」  アシスタントの舞がこの伝説を聞いたら、間違いなくふたりで行こうと言い出すだろうなと思いながら、氷室は岡島の話に耳を傾けつづけた。 「じつは日本からいっしょに旅をつづけているうちに、私は瑛子に対して、いつしか添乗員と客の立場を越えた愛を感じはじめていたんです。そんなときに、白くて幻想的な『花嫁のヴェール』にふたりで包まれてしまった。そして、伝説はぼくたちにとって真実になった、というわけです」  そこまで語り終えたところで、岡島はようやく妻の瑛子へまっすぐ目を向け、その顔をやさしく見つめながらそっと手を握った。  なるほど、と氷室は思った。夫婦の出会いのロマンチックさを強調するために、そしていまもなお夫婦愛の絆《きずな》は強いということを強調するために、彼の「ヨセミテガイド」はあったのか、と。  だが、妻を見る岡島真佐之の眼差《まなざ》しには、決して心からのいとおしさがこもっているとは言い難かった。妻の手を握るしぐさも、どこか計算され尽くされた演技にみえた。  叔父《おじ》からの莫大《ばくだい》な遺産を受け継いだ妻。その彼女が、夫の計画したロンドン旅行で亡霊に取り憑《つ》かれたという謎《なぞ》めいたエピソード。そして、その話を裏付けるかのような落ち着かない言動。  氷室想介の好奇心は否応《いやおう》なしにかき立てられた。霧のロンドンで何があったのかということよりも、夫婦の間にこれから何が起きるのかという点に興味が湧《わ》いたからである。 [#改ページ]    3  上信越自動車道の碓氷軽井沢インターは、高速道路開通前まで軽井沢の表玄関になっていた碓氷バイパスよりもずっと南の、避暑地軽井沢というイメージとはだいぶかけ離れた山の中にある。高速道路を下りてすぐに開けた高原の町に出るのではない。  その山あいに沿って走る県道は、いまや白い液体といったほうが適切なほど濃度を増した夜霧のプールと化していた。その中を泳いでいく感じで、氷室想介は、時速三十キロを下回る速度で車を慎重に走らせていた。  田丸警部から借りた自家用車にはフォグランプが付いていた。黄色いフォグランプではなく、自動車ラリーなどに使われる輝度の高い白色ハロゲンランプである。しかし、点灯してもかえって霧の白さが増すばかりなので、氷室はすぐにそれを消した。いまはロービームにしたヘッドライトだけが頼りだったが、その光もすぐ先の路面にすら届かない。  時刻はまだ午後六時十五分。しかし、この霧の深さにおそれをなしたのか、対向車も後続車もまったく現れない。孤独な深い霧の底を這《は》うようにして氷室想介は車を北へ向けて進めていった。  目的地は北軽井沢の別荘地内にある『軽井沢フォレスト・ロッジ』。文字どおり軽井沢の森の中にあるロッジである。晩秋の軽井沢でテニスを楽しみながら静養をするという目的で、昨日から明日までの二泊三日の予定で岡島夫妻が滞在していた。  三日間とも平日だったが、夫の真佐之が海外ツアー添乗の合間にあったため、休暇を取って妻をそこへ連れだしたという。ただしふたりきりではない。瑛子が勤めていた携帯電話会社の同期入社でいちばん仲のよかった高橋朋子《たかはしともこ》が、ふたりの日程に合わせて会社を休んでくれて同行していた。  その軽井沢のロッジにすぐきてほしいと瑛子から氷室に連絡が入ったのは、きょうの昼下がりのことだった。最初瑛子は京都のオフィスにかけたが、アシスタントの川井舞から氷室が東京にいると聞かされ、こんどは氷室の携帯にかけてきた。このままでは呪《のろ》い殺されてしまいますという真に迫った口調と、岡島にはないしょできてくださいという意味ありげな言い回しに、氷室は動かずにはいられなかった。たまたまきょうは京都へ帰るだけの予定しかなかったから、彼は旧知の田丸警部に事情を話して車を借り受けたのだった。  そのとき、出発する氷室想介を見送る田丸警部が、ひとことポツンと洩《も》らした。 「ひさしぶりに東京に戻ってきたとたん、妙な事件に巻き込まれなきゃいいがな」  その言葉が、いつまでも氷室の耳に残っていた。  運転席の窓を開けたところで見通しが改善されるとも思えなかったが、ボワッと浮かぶ街路灯の明かりが窓ガラスに反射するのを嫌って、氷室は横のウインドウを下げた。すると、はっきりと目でわかる白さを保ったまま夜霧が車の中に流れ込んできた。晩秋どころか真冬を思わせる冷たさである。しかし、その冷たさの中に生ぬるい塊がところどころ混じっている奇妙な感覚の霧だった。  料金所で窓を開けたときよりもずっと密度の高い霧の微粒子が、氷室の頬《ほお》を、そして髪の毛を湿らせていった。  と、そのとき、ジャケットの胸ポケットに差していた携帯電話が突然けたたましく鳴り出した。あまりありがたくないタイミングである。さすがの氷室も、一瞬ドキッとした表情になって胸元に目をやった。イルミネーション機能を持つアンテナロッドが青白い光をまたたかせ、その点滅光がフロントガラスにも映し出されている。  プルルル、プルルル、プルルルと、氷室に早く出てくれとばかりにベルが催促する。光が点滅する。氷室は急いでポケットから携帯電話を抜き出し、通話開始ボタンを押して耳に当てた。 「もしもし」  氷室が答えるより先に、女が問いかけてきた。岡島瑛子の声だった。八月下旬の最初のカウンセリング以来、彼女とは三度ほど対面していたが、会うたびに精神状態が不安定さを増していくのが手に取るようにわかった。その不安定さは、彼女の声質も変えていた。最初に会ったときよりもずっと低く、猜疑心《さいぎしん》に満ちたトーンになっている。 「いまどこですか、先生」 「軽井沢のインターチェンジを下りたところですよ」 「じゃ、あと三十分ほどでこっちにこられますね」 「いや、その時間では着きそうもありません。なにしろ霧がすごくてね、スピードが思うように出せないんです」  この霧の中を携帯電話片手に運転するのはずいぶん危険だなと思いながら、氷室は瑛子との会話をつづけた。 「私もこれほど濃い霧に遭遇したのは初めてです。大げさじゃなく、視界がゼロといってもいい」  氷室の言葉どおり、道路のセンターラインも車のすぐ先しか見えなかった。路肩の状況もわからない。ガードレールの存在も定かではなかった。それでいて道は曲がりくねっているから、油断をすればいつコースアウトしてもおかしくない。 「ヘタをすると倍以上の時間がかかるかもしれませんよ」  しかし、電話の向こうの瑛子は、そんな氷室の状況などおかまいなしに訴えた。 「おねがい、先生が早くきてくださらないと、私、今夜こそどうにかなっちゃう」 「瑛子さんの気持ちもわかりますが、とにかくこの霧が」 「そうなの。霧よ、こっちもすごい霧なの」  瑛子は叫ぶというよりも、周囲を気にしているのか、ほとんど息だけという声の出し方になっていた。だから電話口に息が吹きかかって、それが耳障りな雑音を立てる。 「さっき窓を開けてみて驚いたわ。ロッジのすぐ裏手にある森が何も見えないの。真っ白なの。懐中電灯で照らしても、自分の目の前が光だけ」 「私のほうも同じ状況ですよ、瑛子さん」  片手ハンドルで苦労してカーブを切りながら、氷室は言った。 「ですから、事故を起こしたくはないのでスピードは出せません。それより瑛子さん、私がいまからそちらへ向かうことを、まだご主人に話していないんですか」 「ええ」  低い声で瑛子は答えた。 「さっきロッジのフロントには、先生のために一部屋とるように話しておきましたけれど、まだ岡島には言ってません」 「なぜ」 「どうして軽井沢まで氷室先生をお呼び立てしたんだ、って怒られそうだから」 「しかし、私が突然現れたほうがもっと気分を害されませんか」 「いいんです、どうせ……」 「どうせ?」 「私と彼とは、あまりうまくいってないんです。私がこんなふうになってしまってから、とくに」 「こんなふうに、とは」 「幽霊に取り憑《つ》かれてしまってから」 「………」 「だって、そうですよね、氷室先生」  そこで瑛子は急に笑い声になった。 「おっかしいですもんね、私ってば。ヘンでしょ。頭キレちゃってるんですもん。血まみれの女が毎晩毎晩ベッドにもぐり込んでくるとか、霧なんかぜんぜん出ていない天気なのに、真夜中に霧が窓の隙間《すきま》から入り込んでくるとか……そんなことを言う自分がすっごいヘンだって、自分でもわかってるんです。それに、そういう無気味なことばかり妻が言っていれば、どんなにやさしいダンナさまだって、いやんなっちゃいますよね、気味悪くって。だから彼がもういっしょの部屋で寝てくれなくなったのもわかるんです。それはこっちが文句を言える義理じゃないって。でも、見えるものはしょうがないんですよね。幽霊が出てくるんだからしょうがないんです」 「瑛子さん」 「あはっ、私、自分で自分がバッカじゃないかって、最近、真剣に思ってるんですよ」  氷室の呼びかけを無視して、瑛子は笑いながらつづけた。 「朋子にも……あ、朋子って、いま同じロッジに泊まりにきてくれている友だちですけど、言われちゃいました。瑛子、だいじょうぶ、なんかすっかり変わったみたいだけど、って。だっからあ」  瑛子は大声になった。 「だっからあ、私、朋子に言ったんですよお。友だちなんだから遠慮しないでストレートに言ってよ、って。ほんとはこう言いたいんでしょ。瑛子、頭おかしくなったんじゃない、って。そう思ってるんなら、はっきり言えばいいじゃないですか、んねー、氷室せんせっ」  語尾をキュンと上げて言ったところで、電話の向こうで男の声がするのが聞こえた。 「おい、瑛子。誰としゃべってるんだ」  岡島真佐之の声だった。 「誰でもありませ〜ん」  大きな声で返事をしてから、瑛子は氷室に向かって小声でささやいた。 「先生、一分でもいいから早くきて。私、もう限界なの」  その言葉には、異様な笑いはもう含まれていなかった。 [#改ページ]    4  携帯電話を切ったあと、氷室は軽井沢のメインエリアへ向けて霧の中を走らせながら、岡島夫妻が最初にカウンセリングに訪れたときに語ったロンドンでの出来事を思い返していた。  昨年の暮れ、岡島瑛子が叔父《おじ》の財産を相続し、会社も辞めたあとに夫の真佐之とふたりで出かけたロンドン旅行——そこでの恐怖体験が、いまの瑛子の精神的不安定状態を作りだすきっかけになっていたのだ。  ふたりがロンドンへ九日間の旅に出たのは十二月十七日のことだった。旅行会社の添乗員である岡島にとって、エアやホテルの手配はお手のものである。しかも彼はロンドンに留学経験まであったから、瑛子はすべての段取りを夫に任せきりにした。  そのときの瑛子は、夢にも思っていなかった巨額の財産相続に有頂天で、女王様気分になっていたのは間違いない。お金は私がいくらでも出すから、宿や飛行機の手配はあなたがやってちょうだいね、という態度である。そこには、結婚前のおたがいの立場、つまり客と添乗員といった一種の上下関係が存在していたのも確かだった。  岡島が組んだスケジュールは、十七日から二十三日までの七日間でロンドン市内と郊外を見て回り、クリスマスイブの日に英仏海峡トンネルをくぐる国際列車ユーロスターでフランスに渡って、パリで一泊してクリスマスを楽しむというものだった。そしてそのままパリから東京に戻るスケジュールである。  飛行機に関しては申し分なかった。ヴァージン・アトランティックの機内ではネイルサービスやショルダーマッサージサービスを受け、ヴァージンオリジナルのトレーナーの上下に着替えて、フルリクライニングシートでゆったりとやすめた。  午後四時少し前にロンドンのヒースロー空港に着いてからは、ヴァージン手配のリムジンが待機していて、女性ショーファーの運転で優雅にホテルへと向かった。  すでにとっぷりと日が暮れ、冬の霧に覆われた街灯が、滲《にじ》んだオレンジ色の光の輪を浮かべている。古めかしい建物の屋根には暖炉の煙突が何本も突き出しており、それが黒いシルエットとなって闇《やみ》に沈もうとしていた。  部屋の数だけ暖炉があり、暖炉の数だけ煙突があるといわれるロンドン名物の光景も、スモッグ規制条例によりいまはそこから煙がたなびくことはない。すべてセントラルヒーティングである。  それでも冬のロンドンの夕暮れは、いまがコンピューターの時代であることを忘れさせた。寒さに曇るリムジンの窓ガラスをときおり手のひらで拭《ぬぐ》いながら初めて訪れた英国の首都を眺める瑛子は、頭の中でシャーロック・ホームズの時代へと自分をタイムスリップさせていた。横で岡島があれこれ街並みの説明をしてくれたが、それがほとんど耳に入っていないほど、瑛子はロンドンの情景に見とれていた。  市の中心部に入ると赤い二階建てバスや古典的な外観を持つオースチンのタクシーが列をなして走っていたが、空想に浸る瑛子にはそれが二頭立ての馬車に見えていた。馬を鞭打《むちう》つ御者のかけ声や、山高帽姿の紳士がステッキ片手に石畳を歩く足音などが聞こえてきそうだった。  やがてウエストミンスター寺院や、国会議事堂の時計塔ビッグベンのライトアップされた姿が霧の中に薄ぼんやりと浮かび上がってきた。それは『ロンドン』とカタカナで書くよりも『倫敦』と漢字で記すのが似合いの光景だった。  瑛子が満足していたのは、しかしそこまでだった。リムジンが速度を落として停まり、ここがぼくたちの泊まるホテルだよ、と岡島から言われたとき、瑛子は「えっ」とおもわず声を出してしまった。  伝統的な格式を誇るいかにも英国らしいホテルか、あるいは近代的な設備を誇る米国系の大型チェーンホテルか、さもなければ女性好みの洒落《しやれ》たプチホテル、もしかすると古城をそのまま使った郊外のシャトーホテル——そんなところを想像していたのだが、リムジンが横付けになったのは、テムズ川南岸の路地裏にある小さな宿だった。  ホテルと呼ぶにはおこがましいほど質素なもので、灰色のレンガを積み重ねた壁には蔦《つた》が絡まって、その蔦の上に点々と枯葉がへばりついている。銅板を彫って作られた宿のネームプレートは、蔦の葉になかば隠れる格好で柱に埋め込まれていた。  タワー・ビュー・イン。  ロンドン塔を望む宿、という意味で付けたのだろうが、間口が非常に狭くて奥行きのある、いわゆる『うなぎの寝床』型の細長い建物で、眺望のよさをイメージさせるにはほど遠い外観だった。夜だから陽当たりは確認できないが、両側を高いビルに挟まれており、昼間もあまり陽光が射し込んできそうにない。  空港からふたりを送り届けてきたショーファーも、岡島が宿の名を告げただけでは首をかしげるばかりで、番地を頼りにしてようやく探し当てたほど無名の存在だった。女性運転手は終始にこやかな表情を崩さなかったが、瑛子にしてみれば、豪華なリムジンと自分たちが泊まる宿のみすぼらしさとの対比を、彼女に笑われている気がしてならなかった。  窓の数をかぞえてこの宿が五階建てであることを瑛子は確認したが、正面からではワンフロアに何部屋あるのかわからない。ひょっとしたら、ひとつの階に一部屋ずつしかないのではと思えるほど小さな建物だった。しかも、道路に面した窓には半分しか明かりが灯っていない。  あとで判明したのは、グラウンド《G》フロア——日本やアメリカでいう一階——はフロントと小さなティラウンジがあるだけで、日米では二階から五階に相当する一階から四階には、ワンフロア三部屋ずつ客室が配置されてあった。つまり、合わせて十二部屋の宿である。瑛子たちに割り当てられたのは最上階の四階402号室だった。  ここは日本ではないのだから気にする必要もないとは思ったが、402が『死に』につながるのが瑛子には引っかかった。  が、なによりもこの宿のレベルに彼女は納得がいかなかった。ふたりが持参した大型スーツケースを運んでくれるボーイがいるでもなく、自動であることが信じられないほど時代がかったエレベーターは、鎖の音をジャリジャリ言わせながらGフロアから四階へ行くまでに恐ろしいほど時間がかかった。  岡島が真鍮《しんちゆう》の長い鍵《かぎ》を差し込んで402号室のドアを開け、照明スイッチを入れた。フロアスタンドと、ライティングデスクのランプが同時についたが、目に入ってきたのは、ここは野戦病院かと言いたくなるような殺伐としたツインベッド、それから暗い雰囲気のタペストリーが掛けられている以外ほとんど飾り気のない白塗りの壁だった。  壁を白く塗ってあるのは、狭い部屋をなんとか少しでも広くみせようという工夫だという気がしたが、光量の少ない照明のおかげで、白い色の持つ膨張効果は半減してしまていた。とにかく圧迫感のある窮屈な間取りである。  コートを羽織ったままツインベッドの片方に瑛子が腰を下ろすと、きゃしゃな彼女の身体《からだ》ですら耐えかねるといったふうにベッドの脚がミシッと音を立てた。 「なんで?」  コートのポケットに両手を突っ込んだまま、瑛子は不満を顔いっぱいに表わしてたずねた。 「なんでこんなホテルなの」 「最低だと思ってるだろ」 「ううん」  いったん首を横に振ってから、瑛子は皮肉っぽく言い直した。 「最低じゃなくて、チョー最低」 「なるほど」  岡島は、そういう反応は最初から予測していたといった顔で、肩をすくめて笑った。そして自分のコートをハンガーに掛け、マフラーはまだ首に巻いたまま、ジャケットの内ポケットからタバコのパッケージを取りだした。  が、すかさず瑛子が咎《とが》め立てした。 「ここにいる間は、タバコ吸わないで」  瑛子はノンスモーカーで、日ごろから岡島の吸いすぎには辟易《へきえき》していた。それは結婚してからわかったことだった。添乗員としての岡島は客の前では決してタバコを吸わなかったし、交際中もノンスモーカーの瑛子に配慮してタバコを取りだしもしなかったから、結婚後にヘビースモーカーとわかったときは、瑛子としては騙《だま》された気分だった。 「こんな狭い部屋でスパスパやられたら、私、ニコチン中毒で死んじゃうわ」 「わかったよ」  岡島は、すなおにタバコを引っ込めた。 「じゃ、吸うときは窓を開けることにする」 「そんな気遣いをしてくれるよりも、本気で今夜からここに泊まるわけ?」 「そうだよ」 「一週間も?」 「ああ」 「私、いや」  瑛子は感情をむき出しにして言った。 「お金ならいくらでも出すから快適な旅を組んでって頼んだのに、これがプロの添乗員のやる仕事?」 「相変わらず厳しいなあ」 「説明して欲しいの。ここはロンドンであって田舎町じゃないわ。ホテルならいくらでもあるはずなのに、予算もちゃんとあるのに、どうしてこんなところを選んだのよ」 「窓からの眺めがいいんだ」 「窓からの?」 「これだよ」  岡島は窓辺に歩み寄り、掛け金をはずして観音開きの窓を左右に開いた。  寒いよりも湿気を帯びて冷たいと感じる夜気がスーッと流れ込んできて、コートを羽織ったままの瑛子の足元まで這《は》い寄ってきた。 「さあ、こっちへきてごらん」  岡島にうながされて、瑛子も窓のそばに歩み寄った。 「あそこに架かっている橋が有名なタワーブリッジだ」  橋というよりも古城の尖塔《せんとう》をイメージさせる二つのタワーを連結したゴシック様式のはね橋が、霧に滲《にじ》んだ緑白色の照明に照らされてテムズ川に架かっている。 「そして向こう岸に見えるのがロンドン塔だ。幽閉と処刑の歴史に彩られた怨念《おんねん》の塔」  こちらはさらに霧のヴェールに隔てられて霞《かす》んでいた。 「ロンドン塔を作るように命じたのはノルマン王朝初代のイングランド王ウィリアム一世、十一世紀の末の話だ。そしていまの形の基礎ができたのが十三世紀後半。で、その傍らにあるタワーブリッジは十九世紀末、一八九四年に完成した。だから両者の間にはざっと六百年という時の流れがある。それなのに、あたかも同じ時期に建てられたようにデザイン的にマッチしているのは、タワーブリッジ建設のときにロンドン塔と融合した景観となるよう配慮されたからなんだ」  岡島真佐之は、かつてヨセミテ国立公園で客としての瑛子に懇切丁寧なガイドをしたときと同じ口調で、霧に煙るロンドン塔とタワーブリッジの解説を展開した。 「ちなみにこのタワーブリッジは、よくロンドンブリッジと混同されるけど、『ロンドン橋落ちた、落ちた、落ちた』というあの有名な童謡に出てくるロンドンブリッジは、もう一本上流に架かっている」  そして岡島は、こんどは英語で歌いはじめた。  London Bridge is broken down, broken down, broken down——  歌いながら岡島はリズムをとって首を左右に振った。 「ちょっとやめてよ、歌なんか!」  四歳年下の瑛子が、命令口調で言い放った。 「いまここで真佐之の観光ガイドなんか聞きたくないの」  瑛子は開いていた窓を両手で左右から引き寄せ、ぴしゃりと閉めた。  掛け金を下ろす前に、霧の舌がぺろりと部屋の中に入り込んできた。 「嘘《うそ》はつかないで、マーちゃん」  瑛子は、こんどは夫を愛称で呼んだ。ふたりでじゃれあうときに使う呼び名である。もちろんいまはそんな気分ではないが、相手の本心を聞き出すにはこちらのほうがいいと思ったのだ。 「ロンドン塔見物だったら昼間やればすむことで、なにもわざわざ近くのホテルまでとることないでしょう。それもゴージャスなホテルならまだわかるけど」 「ぼくはこの眺めが好きなんだよ、瑛子」  窓を閉めたために冷気は遮断されたが、代わりにもとの圧迫感が戻ってきた。岡島の声も、外に向かってしゃべっていたときと違って、やたらと部屋の中で響いた。 「かつて文豪の夏目漱石がロンドンに留学していたとき……」  首に巻いていたマフラーをゆっくりほどきながら、岡島は言った。 「『倫敦塔』の景観に感動したあまり、この感動が薄れるから二度とここにはこない、という意味のことを彼は言った。これはね、海外旅行の基本原則じゃないかとぼくは思っているんだよ。感動というものは時間の経過と反比例して薄まっていく。海外だけでなく、国内の観光スポットだってそうだ。一度行って素晴らしいところだと大感激して、のちにもう一回行ったら、ぜんぜんよいと思えなくて、それだけでなく最初の感動すらいっしょに消えてしまって、せっかくの思い出が台無しになってしまうこともある。だから、ほんとうに旅の余韻を大切にしたいなら、感動した場所には二度と行かないことが原則だ。  だが、悲しいかな添乗員という商売は同じスポットを繰り返し繰り返し訪れなければならない。だからこの仕事をつづければつづけるほど、ぼくは旅の感動とは縁遠い位置に自分を置いてしまうことになる。でもね、ここだけは違う」 「ここって、ロンドンのこと?」  しだいに能弁になってゆく夫を見つめながら瑛子がきくと、岡島は首を左右に振ってノーと言った。 「ロンドンじゃなくて、このホテルそのものだよ。タワー・ビュー・インにぼくは強い思い入れがある。ロンドン塔やタワーブリッジは数え切れないほど添乗員として訪れているけれど、すぐそばに建つこの宿は、むかし一度だけ訪れて以来、いままで二度と脚を踏み入れることがなかった。その前すら通ったことがなかったんだ。思い出を大切にしようと思っていたからね。だけど、どうしてもぼくはここへ戻ってきたくなった」 「その思い出って、留学していたときのこと?」 「そう。いまからちょうど十年前、二十歳のときだよ」 「どういう思い出なの」  まだ窓際にたたずんでいる瑛子が、険しい表情で問いただした。 「そのころつきあっていた人とここに泊まったの?」 「まさか」  ほどいたマフラーを両手でもてあそびながら、岡島はクスッと笑った。唇の両端がくるっとまくれ上がった。 「そういう場所にきみを連れてくるほどぼくは無神経じゃないよ」 「じゃ、なんなの」 「当時ぼくは大学に付属していた留学生用寄宿舎に寝泊まりしていたんだけど、冬のある日、ふと通りすがりのこの宿に惹《ひ》かれて、飛び込みで部屋をとって一晩泊まることにした」 「どうして」 「その理由が自分でもわからないんだ。強いて言うなら、何か見えない力に引き寄せられた、って感じかな」  岡島はライティングデスクの前の椅子《いす》に、瑛子のほうを向いて腰掛けた。  机の上のランプが彼の横顔を斜め下から照らし、オレンジと黒の薄気味悪いコントラストを描き出した。 「泊まったのはこの部屋だった、402号室。九年ぶりに訪れたのに、あのときと少しも変わっていない。驚いたことに、あのタペストリーもだ」  岡島は羊毛を織って作った幾何学《きかがく》模様の壁掛けを指さした。それは照明の死角に位置しているせいもあってか、かなり黒ずんでみえた。 「そして、このベッドの位置も変わらない。何もかもあのときのままだ」 「で?」  と、窓を背にした瑛子が先を促す。 「どういう思い出がこの部屋にあるのよ」 「九年前に泊まったときは、さっきぼくらの受付に出た若い男じゃなくて、でっぷりと太ったじいさんがいた。フロント係というよりはオーナーだろうけどね。その彼が、ぼくに鍵《かぎ》を渡しながらニヤッと笑ってこう言ったんだよ。402号室に泊まった人間はいい夢をみますよ、ってね」 「いい夢?」 「たしかにみたよ、いい夢をね」 「どんなの」 「どういうのだと思う?」 「わからないからきいてるんじゃない」 「なるほど」  岡島は肩をすくめた。 「わからないからきいてるんじゃない、か……どうして瑛子はそんなふうに殺伐とした言い方をするのかなあ」 「悪い?」 「ま、いいけどね。ともかく、じいさんの予言したとおり、ぼくは夢をみた。それは血なまぐさい人殺しの夢だった」 「人殺し……」 「この402号室で、若い女が殺されるんだよ。赤毛の女が首をザクッとサバイバルナイフで切られてね。そこのベッドでだ」  岡島は、さっきまで瑛子が腰掛けていたベッドを指さした。 「そんな青ざめた顔をするなよ。あくまでそれはぼくの夢なんだから」 「どうしてそういう悪趣味な話をするの。寝られないじゃない、私」 「ここを選んだわけをきちんと説明してほしいときみがリクエストするから、その背景を順序立てて話しているだけなんだ」  そして岡島は、そのときみた夢をもとにして、推理小説の習作を書いたことを打ち明けた。 「なにしろロンドンは名探偵シャーロック・ホームズ誕生の地だからね。その本場で得たインスピレーションを大切にしたかった。そのとき書いた小説はいまもだいじにしまってあるんだけど、まあ中身はハッキリ言ってホームズの物まねの域を出ない。タイトルも『赤毛の女』だ。『赤毛連盟』を意識したまねっこタイトルで恥ずかしいかぎりだけど、あれから九年経って、ぼくはもう一度同じホテルの同じ部屋に泊まって、神の啓示を受けたいと思った。ミステリーの神さまがぼくに何かを授けてくれるんじゃないかと思ってね」 「なに、それ」  瑛子は、露骨にあきれたという表情を作った。 「マーちゃん、推理作家にでもなるつもり?」 「そうだよ」  あっさりと岡島が認めたので、また瑛子は不愉快そうな顔になった。 「真佐之」  マーちゃんという愛称から、呼び方が元に戻った。 「それじゃこの宿は、私のためじゃなくて、真佐之のために選んだの?」 「うん」 「ひどいじゃない」 「ひどい?」 「だってこの旅行は私のためにあるんでしょう」 「ちょっと待ってくれよ」  ほどいたマフラーの両端をそれぞれの手に握り、それをくるくるとねじりながら岡島は立ち上がった。 「ぼくたちは夫婦だろ」 「そうよ」 「夫婦なら、おたがいのメリットを尊重しあうべきじゃないかな」 「だけど聞いてないもん、私。こんなホテルに泊まるなんて」 「いや、瑛子はぼくにすべてをまかせると言った」 「それは言ったけど」 「まかせるとゲタをあずけたなら、ぼくが決めたことに文句を言うのは筋違いじゃないかな」 「真佐之、こんどの旅行は誰のお金できていると思ってるの」 「その態度が不愉快だということがわからないのかい、瑛子」  岡島は、両手の間でねじったマフラーをピンと張った。  瑛子は額にびっしり汗をかいている自分に気づき、コートを脱いだ。狭い部屋で険悪な言い合いがはじまり、そのことでよけいに圧迫感が増した。 「いったいいつになったら客と添乗員という立場を忘れてくれるんだ。とくに叔父《おじ》さんの遺産を相続してからのきみはずいぶん変わった気がする」 「あらそう」 「それまでは、ぼくたちはちゃんとした夫婦だった」 「じゃ、いまはちゃんとしていないわけ?」 「と思うね」  唇の端をくるっと巻き上げて、岡島は怒りの笑顔を作った。 「まるでぼくはきみの使用人だ」 「私にはそんなつもりはないわ。あなたが旅のプロだから、すべてをまかせただけのことよ」 「きみの態度の変化はそれだけでは説明できない。とにかく瑛子は変わった」 「それじゃ言わせてもらうけど、私だって同じことを思っていたのよ。真佐之は変わった。私に対する愛情が急に薄れたって」 「へーえ」 「さっき真佐之は、感動した場所へは二度と行かないという夏目漱石の言葉を引き合いに出したわよね」 「ああ」 「私もそれには同感だわ。だから私はたぶん一生ヨセミテへは行かないだろうと思っていた。とくにあなたといっしょに霧のヴェールに包まれたブライダルヴェール・フォールへは」 「………」 「あなたから愛を打ち明けられたあの滝は、私にとって永遠の聖地。その神聖な感動を永遠に保存しておきたいから、私は十年経っても二十年経っても絶対にヨセミテへは行かないと決めていた。でも真佐之は、私といっしょに行ったあとも、一カ月とおかずにまた同じ場所へ行った」 「仕方がないだろう、仕事なんだから」 「結婚してからも、何度も何度もあなたはヨセミテへ出かけた」 「うちの会社で、現地ガイドのヒデじいさんといちばん気が合うのがぼくなんだ。どうしたってヨセミテツアーはぼくにまかされることになる。それはどうしようもないことじゃないか。個人的に思い出の場所なんでとっておきたいんです、というわけにはいかないんだよ」 「でも、そうやって真佐之は何度もあそこで花嫁のヴェールに包まれた。私以外の女の人と」 「………」  夫の表情が一瞬引きつったことを、瑛子は見逃さなかった。 「真佐之にとっては、ブライダルヴェール・フォールの感動も薄れてしまったでしょうけど、それだけじゃなくて私に対する愛情も薄れてしまった」 「瑛子」 「だって、そうよね」  瑛子は声を張り上げた。 「いったい世の中のどこに、ふたりの思い出の場所にほかの女と何十回も出かける男がいるっていうのよ!」 「そんなことでやきもちをやいてどうするんだ!」  岡島も大声で言い返した。 「ワケのわからない難クセをつけないでくれないか」 「きっと私以外のほかの女の人にも言ったでしょう」 「なにを」 「この滝が作り出すロマンチックな霧にふたりで包まれたカップルは、やがて永遠の契りを交わすことになるって」 「そりゃ言うよ。案内役として当然のことじゃないか」 「そして、好みの子がいたら口説くのよね。私にそうしたように」 「バカな」  岡島は両手で引っぱっていたマフラーの一端を、右手首にぐるぐると巻きつけた。 「怒ったの、真佐之? 怒ったから、そのマフラーで私の首を絞める気?」 「いいかげんにしろよ」  吐き捨てると、岡島真佐之は手首に巻きつけたマフラーをほどいて、ポンとベッドの上に投げ出した。そして窓際に立っている瑛子のところまで行くと、彼女の身体《からだ》を押しのけるようにして、また窓の掛け金を上げて開いた。  同時に、さっきよりもぐんと濃密になった白い霧が部屋の中になだれ込んできた。  まだ時刻は夜の六時にもならないのに、ロンドンの街明かりは深い霧に覆われてその輝きを半減させていた。さっきまではっきり見えていた向こう岸のロンドン塔は、ライトアップされているにもかかわらずその存在がわからなくなっていたし、タワーブリッジも向こう半分は霧の中に隠れていた。 「ぼくたちは何のためにこんどの旅に出たんだ」  霧のフィルターがかかったテムズ川の夜景を眺めながら、吐き捨てるようにつぶやく岡島の息が白くなっていた。 「ケンカをするためか」 「真佐之がこんな宿をとるからいけないのよ」  言い返す瑛子の息も、白い煙になって外から入り込んでくる霧とまざりあった。 「そうじゃなかったら、私たちはいまごろ着替えをして、どこかのレストランへ楽しい夕食に出かけていたはずだわ」 「ぼくはね、瑛子」  妻に背中を向けたまま、岡島は言った。 「いつまでも添乗員の仕事をやっているつもりはないんだ。感動した場所を個人的に大切にとっておけない仕事は、ぼくの感性に合わない。だから真剣にぼくは転職を考えている」 「それでミステリー作家になろうってわけ?」 「ああ」 「バッカじゃない」  瑛子は笑った。夫の真佐之は顔立ちそのものが怒ったときでも笑うように見える。一方で瑛子は、怒ったときに声を出して笑う習慣があった。  それが自分の悪い癖だとは、瑛子もちゃんと認識していた。怒ったときに笑う癖というのは、相手の神経をよけいに逆撫《さかな》ですると自分でもわかっていた。でも、止まらなかった。 「ミステリー作家になるために、このロンドン旅行を決めたの? あ、そう。で、留学生のときにやってみた作家ごっこを、またもう一度やってみようってこと。ふーん」 「瑛子」  くるりと向き直った岡島の顔には激しい怒りが浮かんでいた。 「おまえ、おれをバカにしてんのか」 「のんきなものね、って言いたいだけ」  瑛子は眉《まゆ》を吊《つ》り上げ、おかしくもないのにまた笑った。 「私のお金を使ってロンドンにきて、推理作家のまねごとをやるだけのためにこんな宿を予約して、そして本気で会社を辞める気になっている。私が叔父《おじ》さんから受け継いだ財産があるから、職にあぶれても平気だとタカをくくっているからそういうことができるわけよね。ほんとのことを言えば、作家になれるなんて思ってもいないくせに」 「もうやめよう、瑛子!」  ほとんど怒鳴るようにして、岡島は言った。 「このままじゃ最悪の諍《いさか》いになってしまいそうだ」 「もうなってるんじゃない?」  瑛子は、あくまで皮肉っぽく言ったが、岡島は必死に感情を抑えて挑発には乗らなかった。 「とにかくきょうは時差もあるから、もう寝よう。一晩眠ったら、おたがいに気持ちも落ち着くだろうし」 「私はいやよ、こんな狭っくるしくて陰気な部屋に泊まるのは」 「いまから急にそんなことを言われてもどうしようもない」 「添乗員ならなんとかしてよ」 「同じことを何度も言わせないでくれ。ぼくときみは添乗員と客の関係じゃない。夫と妻なんだ」 「なんでもいいから、部屋を換えて、いますぐに」 「じゃあ一晩だけ」  岡島は人差指を立てた。 「一晩だけここでガマンしてくれ。明日からは別の宿をとるから」 「絶対よ」 「ああ」 「最高ランクのホテルにしてくれなきゃイヤよ」 「わかったよ」  岡島に確約させたことで、ようやく瑛子は怒りの矛先を収め、ともかくも到着第一日目の夜は、タワー・ビュー・インの402号室で眠ることに同意した。  そして瑛子は、その夜、赤毛の女の亡霊に出会った—— [#改ページ]    5  それが何時ごろであったのかわからない。夢うつつの状態の中で、岡島瑛子は頭や顔 のあたりが妙に熱っぽく、それでいて同時に冷たく湿っぽい感触に包まれていることに気がついた。しかし、目を覚まして自分の身体《からだ》の状態を確かめようとするエネルギーよりも、深い眠りの底に彼女の意識を縛りつけるエネルギーのほうが勝って、瑛子はまぶたを開くことすらできずにいた。 (これって、金縛り?)  そう考えたとたん、金縛り特有の苦しさに襲われた。身体を動かしたいけれども動かせない。物理的に束縛されているのではなく、自分の意思が自分の意思に猛反発するという苦しみに、瑛子は眉《まゆ》をひそめた。  そのうちに彼女は、自分が濃密な霧の中に置かれているイメージに囚《とら》われた。外にいるのではない。このタワー・ビュー・イン402号室のベッドに寝ていることはわかっている。その状態のまま、霧に包まれている感覚——  半覚醒《はんかくせい》状態の中で瑛子は、自分を包んでいる霧は、開けはなった窓からなだれ込んできたのだと考えていた。眠りにつく前に窓から眺めた夜霧のロンドンが脳裏で再生されはじめていた。まるで生き物のように、霧の舌がぺろりと窓から室内に這《は》いずり込んできた映像も記憶している。  だが意識の片隅で、霧の発生源は外ではない、と教えるセンサーが働いていた。霧は窓から忍び込んできたのではなく、部屋の中から湧《わ》いている、と。  しかもその具体的な位置までが、瑛子にはつかめてきた。自分の頭の真上だ。ベッドにあおむけになって眠っている自分の頭の上あたりから濃密な霧が立ち込め、それが顔に滝のようになだれ落ちてくるイメージ。 (滝のようになだれ落ちてくる霧?)  瑛子の頭に、ある光景が浮かび上がった。ブライダルヴェール滝——夫の真佐之から、添乗員と客の立場を超えた愛の告白を聞かされたあのロマンチックな伝承に包まれた滝である。その水しぶきを浴びたときの思い出が、霧に包まれた感触とともによみがえってきた。 (あのときの私は幸せの頂点にいたかもしれない。あれが私にとって、幸福のピークだったかもしれない)  しかし、いま瑛子が顔に感じている霧は、幸福や愛情の温かみはなく、呪《のろ》いと怨《うら》みの冷たさに満ちていた。  やがて驚くべき映像が彼女の心のスクリーンに登場した。  女が枕元に立っているのだ。年齢は若い。日本人ではない、赤毛の若い女だった。それが枕元にボーッとたたずみ、眠る瑛子を覗《のぞ》き込みながら、口から白い霧をこんこんと吐き出している。  オカルト関係の本で読んだエクトプラズムという心霊現象を瑛子は思い出した。霊媒師の口から吐き出されるミルクのような白い気体である。それと同じものが、いま自分の顔にふりかけられている。 (いや、そんなものを顔にかけないで)  瑛子は本能的に顔をひねってそれを避けようとした。だが、やはり身体が動かない。 (起きなくちゃ)  これは夢だと言い聞かせる自分が、必死に肉体を目覚めさせようとしていた。 (早く起きて、こんなまぼろしは消してしまわなくちゃ)  だが、筋肉はまったく作動しない。意思の力を込めれば込めるほど、思うままにならない苦痛だけが返ってくる。 (マーちゃん、真佐之)  瑛子は夫の名前を心の中で叫んだ。 (真佐之、私を起こして)  しかし、何かの反応があるわけでもなく、瑛子を包む霧はいっそうその濃度を増していく。そして、枕元にたたずむ赤毛の女がぐーっと身をかがめて瑛子の顔に近づいてきた。 (………!)  実際には目を閉じたままなのに、眠りの中で瑛子は恐怖に目を見開いていた。  かがみ込んできた赤毛の女の首は、ざっくりと割れ、そこから筋肉と骨がのぞいていた。そして——実際にはありえないことだが——頸動脈《けいどうみやく》が人体標本そのままに、真っ赤なチューブの形をしてその裂け目からはみ出していた。切断されたその断面からは、真っ赤な血が断続的にピュッ、ピュッと噴き出している。それが瑛子の顔にも降りかかる。  瑛子は、その女が誰であるかを思い出した。九年前、ロンドン留学中の岡島が夢にみたという、この402号室で殺された赤毛の女。実在しないはずの惨殺事件の被害者が枕元に立っていた。  瑛子を覗き込むその女の顔が、さらに近づいてきた。  赤毛の女は灰色の瞳《ひとみ》をしていた。その瞳には憎悪が渦巻き、薄い唇から覗いてみえる歯は、血で赤く汚れていた。殺されたくやしさに唇を噛《か》みつづけ、自分の歯で唇の皮膚を貫いてしまっているのだ。 (おまえのせいで)  外国人のはずなのに、英語がしゃべれない瑛子にもわかるメッセージがその血まみれの口から放たれた。 (おまえのせいで、私は殺された)  女の髪の色とは対照的に青白い手が、瑛子の首に伸びてきた。  瑛子は悲鳴をあげようとした。  が、それより先に、悲鳴にも似た金属的な高音が瑛子の鼓膜を震わせた。  ピーーーーーー。  それは途切れることなく、長く、長くつづいた。いつになったら止むのだろうと瑛子は待っていたが、その音は延々とつづく。  笛——  最初は悲鳴を連想したが、つぎに瑛子は笛の音だと思った。空港からロンドン市内に入ってきたときに見かけた騎馬警官か、あるいは通常の巡査が持つ笛。そうした現実的な空想に重ねて、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてのシャーロック・ホームズの世界が浮かび上がってきた。石畳を足音高く逃げる殺人者。それを追いかける警官。ガス灯に照らされて長く伸びたり縮んだりする両者の影。その警官が鳴らす呼び子。  さらにそのつぎに瑛子の脳裏には『霧笛』という言葉が浮上した。汽船などが発する霧笛はもっと低い周波数だが、この高音は、濃霧を貫き遠くまで届かせる警報としては最適の音色だと思われた。  濃霧の中の警笛——霧笛。 (倫敦の霧笛……)  漢字の『倫敦』と『霧笛』が組合わさり、そして瑛子の枕元で口から白い霧を吐き出す女のイメージがそれに加わった。タワー・ビュー・イン402号室で赤毛の女の首をかっさばいて殺した殺人鬼。その殺人鬼は、夜霧にまぎれて姿を消した。だが、瑛子がその殺人者と誤解されて、捜査陣の吹き鳴らす呼び子に追いかけられる。そんなストーリーが混濁した瑛子の意識の中でつぎからつぎへと繰り広げられた。  さらに夏目漱石の顔までが出てきた。寝る前に、岡島が瑛子に例のガイド口調で夏目漱石の『倫敦』留学に関するエピソードをさらにつけ加えたからだ。その記憶が、悪夢の中に混じり込んできた。  のちにあの名作『坊っちゃん』を執筆する動機となった松山中学英語教師の体験を経て、一九〇〇年に文部省の命令でロンドンに留学した夏目漱石は、『倫敦塔』の威容に感動する一方で、文学論構築のためのジレンマに陥り激しい神経衰弱に罹《かか》った。しかし、その神経衰弱のほんとうの理由は霧のせいではないか、と岡島は言うのだ。人の心のバランスを崩させる毒素がロンドンの霧にある、と。  夏目漱石がロンドンから帰国したのは一九〇三年、そして五十の大台を目の前にして亡くなったのが一九一六年。岡島は、いつものように細かい数字を並べ立てて瑛子に語った。漱石はロンドンから帰国して十三年後に死亡したが、それは霧の衣をまとった悪霊に呪われたせいだという話を、岡島は、時差で疲れて深い眠りに引きずり込まれてゆく瑛子の耳元で語りつづけた。ブライダルヴェール滝の水しぶきのヴェールにまつわるハッピーな言い伝えを教えてくれた同じ人間が、いまは夜霧と悪霊の関連性を妻に夜伽《よとぎ》するようになっていた。  就寝前に聞かされた夫の言葉も重なって、瑛子はいっそう恐ろしさを増す悪夢に悶《もだ》えた。映像と音声の両方の記憶、そして湿っぽい体感がミックスして、瑛子は悪魔が広げる霧の衣に包まれた恐怖からまったく抜け出せない。  が、突然、ピーッという笛の音が止んだ。それに合わせて、金縛りが解けた。  しばらくしてから、どうにか目が開いた。  現実の402号室の光景が瑛子の視野に入ってきた。眠るときは、たしかライティングデスクのランプを豆電球だけにしておいたはずなのに、もっと明るい光がベッドのところまで洩《も》れてきている。  たぶんそれはバスルームの光だろうと瑛子は思った。照明をつけたままバスルームのドアを開けっぱなしにして、ベッドのほうまでその明かりが洩れてきているのだ。  隣のベッドを見ると、もぬけの殻だった。 「真佐之?」  瑛子は夫の名前を呼んだ。 「マーちゃん?」 「あ」  びっくりした声を出して、夫が部屋の戸口の方角から瑛子のベッドへ駆け寄ってきた。瑛子が目を覚ましてしまうとは思わなかったといった表情である。 「どうしたんだ、瑛子」  そうたずねながら、岡島は瑛子に見られないようなしぐさで、パジャマのズボンポケットに何かを押し込んだ。その物体の一部だけが一瞬、瑛子の目に映った。物が何かはわからないが、銀色をしていた。 「いま……なんじ?」 「いまか」  枕元のデジタル時計に目をやって、岡島は答えた。 「夜中の一時すぎだ」 「マーちゃん、起きてたの」 「あ……ああ、ちょっとトイレ」  やや口ごもる感じで言ってから、さらに岡島は妙に言い訳がましい口調で言い添えた。 「日本じゃ朝の十時だからな。身体《からだ》のサイクルがまだ東京にいるときのサイクルで動いているんだよ。いくら添乗員が商売でも、これだけは何度海外に出てもダメだね」 「そう……まだ一時なんだ」 「それより瑛子のほうこそどうした。何かうなされたのか」 「いまの笛、聞こえたでしょう」 「笛?」  岡島が眉《まゆ》をひそめた。 「笛ってなんだ」 「ピーっていう甲高い音。それが長く長くつづいて……トイレに起きたんだったら、あなたにも聞こえていたでしょう」 「あ、ああ……いや」  岡島はあいまいな相づちののちに、はっきりと否定した。 「ぼくには何も聞こえなかったな」 「うそ」  瑛子はベッドの上に身を起こし、岡島の返事に納得できない顔で訴えた。 「あんなに大きな音だったのに。ピーーーーーーーーーーイって。聞こえないはずがないわ」 「いや、聞いていないね。そういう音は」  岡島は瑛子の肩をポンポンと叩《たた》いて言った。 「それも夢の中だと思うよ」 「………」 「で、どんな夢をみたんだ」 「恐《こわ》い夢」  そう答えながら、瑛子は夫の肩越しに、クロゼットの扉が半開きになっているのを見た。 (なんであそこが開きっぱなしになっているの?)  瑛子は頭の片隅で、チラッとそんなことを考えた。  そのクロゼットは402号室の戸口のすぐ右側の壁に備えつけられており、戸口の左側にあるバスルームとはちょうど向かい合わせの位置にあった。バスルームの照明を浴びて、クロゼットの中身が見える。瑛子と岡島の着てきたコートがそれぞれ並んでハンガーに掛けられてあった。そのうち、岡島のコートが少しひねった形で瑛子のコートにかぶさっていた。 (真佐之は、何かをコートから出そうとしたんだろうか)  ぼんやりそんなことも思ったが、岡島の声で、また瑛子は夫の顔に視線を戻した。 「恐い夢って、どういう内容なんだ」 「出たのよ」  瑛子は岡島のパジャマの袖《そで》をつかんだ。 「私の枕元に出たの」 「枕元に出た? 何が」 「幽霊」 「まさか」  岡島は笑った。が、すぐさまその笑いを引っ込めて、真剣な口調できき返した。 「幽霊って、どんな幽霊だ」 「赤毛の女よ」 「赤毛だって……」  こんどは岡島がスッと顔色を変えた。大げさともいえる表情の変化。 「まさかそれ、九年前におれが夢にみた女じゃないだろうな。首をざっくりとサバイバルナイフで切られて」 「それよ、それなの」  瑛子はいまみたばかりの夢の中身をまくし立てた。女の口から白い霧が次々に流れ出し、それが自分の顔に降りかかってきたことも。  すると岡島は、長い間黙りこくった。その沈黙が気になって、瑛子はますます不安になった。たまりかねて彼女は夫を問いつめた。 「ねえ、この部屋で殺された赤毛の女の話って……もしかしてそれは真佐之のみた夢じゃなくて、現実にあった出来事じゃないの?」 「………」 「ねえ、どうなのよ」  瑛子に再度問いつめられて、岡島はようやく重い口を開いた。 「そうだよ」  驚愕《きようがく》で目を丸く見開く妻の顔を見ようとはしないで、夫は言った。 「この402号室で、赤毛の女が殺された事件があった。いまから五十年近い昔——ぼくらが生まれるずっと前のことだった」 [#改ページ]    6  和美《わみ》峠を越えて南軽井沢のあたりまで下りてきたところで、ようやく霧は薄らぎ、車の行く手の見通しが利くようになった。そして線路を越えて北軽井沢へ入ると、氷室想介が運転する車をすっぽり包みつづけてきた夜霧は、すっかり晴れあがってしまった。  北軽井沢へ入れば、岡島瑛子たちが宿泊している軽井沢フォレスト・ロッジはもうすぐだ。田丸警部から借り受けた車にはカーナビが付いていたので、それに入力したデータを頼りに、氷室はミスコースすることなく目的地にたどり着いた。  時刻は午後六時四十五分。氷室が懸念していたほど時間はかからなかったが、それでもカーナビが算出した標準所要時間を五割も上回っていた。  軽井沢フォレスト・ロッジは、もしも霧の中に忽然《こつぜん》と現れたらかなりファンタジックな雰囲気を醸し出したかもしれないたたずまいだった。切り開かれた森の中に、ロッジが横長に連なっている。一戸ずつ独立しているのではなく、木造二階建てで上下四戸ずつ横に連結された計八戸を一単位とするブロックが三棟——A、B、Cとそれぞれ名付けられ、たがいにかなりの距離をおいて存在していた。  そのほかに一戸ずつ独立したコッテージ形式のエリアと、それからホテル形式の宿泊棟がもう少し離れた場所にあり、じつはそちらのほうが施設のメインでフロントもホテルのほうにあると氷室は聞かされていた。  ただし、わざわざフロントに立ち寄らなくても、A棟の12号室が私の部屋なので、そこに直接きてくだされば氷室先生のお部屋の鍵《かぎ》をお渡ししますから、と瑛子は電話で氷室に告げていた。  森の中に設けられた未舗装の小径《こみち》をゆっくりと走らせながら、氷室はどれがA棟なのかを探した。タイヤの下で砂利《じやり》がビチバチと音を立てた。  意識的によぶんな照明を排除したとみられる敷地内はかなり暗く、ロッジの姿はなんとか見えるものの、棟名の表示がライトアップされているわけでもないので、どれが目的の棟なのか、すぐにはわからなかった。最初の建物のそばまで近づいて、ようやくそれがC棟だと判明した。岡島瑛子の待つA棟はいちばん奥だった。  そのA棟の前の駐車スペースに車を停めると、氷室は運転席の窓ガラスを下げてロッジの明かりを見やった。二階建てのA棟のうち、一階の左下三戸だけに明かりが点《つ》いており、一階の右端の部屋と二階の四戸の窓はすべて真っ暗だった。  山あいにある高速道路の料金所で感じた真冬のような寒さではなかったが、それでも晩秋の北軽井沢の夜気はかなり冷たかった。白い息を吐いて森の中のロッジを見つめながら、氷室はすぐにはそちらへ向かわず、しばらく運転席のヘッドレストに頭をもたせかけて休息した。視界ゼロの霧の中を走ってきた気疲れもあったが、それよりも、八月下旬の最初のカウンセリング以来、岡島夫妻の双方から数回にわたって聞かされたロンドンの亡霊物語をもういちど頭の中で咀嚼《そしやく》していたのだ。  昨年末、ロンドンで岡島瑛子の身に何が起きたのかという概要をつかむには、ふたりそろって訪れた最初のカウンセリングだけではじゅうぶんではなく、その後夫婦別々に面談したり、何度も京都へ足を運んでもらうのは大変なので電話で個別インタビューも行なった。直接面談の回数は少なかったが、電話でのやりとりはかなりの頻度にのぼり、その結果、氷室の頭の中でもようやく事態の詳細なイメージが描き出せていた。  ロンドン旅行の初日、口から白い霧を吐き出す赤毛の女の悪夢をみた瑛子は、夫真佐之から、じつは五十年近く前に、402号室で実際に赤毛の女が殺される事件が起きていたと打ち明けられ、ひどいショックを受けた。しかも、女が死んだのは瑛子が寝ていたほうのベッドだという。  瑛子を恐《こわ》がらせるといけないので最初は嘘《うそ》をついたが、九年前に初めてこのホテルに宿泊したのは、じつはその猟奇事件を噂《うわさ》で聞いたからだと岡島は打ち明けた。留学生だった当時からミステリーやホラー小説、そしてオカルト現象にも強い興味を持っていた岡島は、その部屋に泊まれば女の幽霊を観察することができるかもしれないと考え、部屋を指定して宿泊したのだという。  その夜、岡島はたしかに赤毛の女が出てくるリアルな夢をみたが、それは一種の暗示によるものなのか、それとも霊との遭遇なのかはっきりしなかった。だからもういちど同じホテルに泊まって、できることなら心霊現象をはっきり体験し、それを小説に書きたかったのだと説明した。  金縛りからようやく解けたあと、じつは惨劇は事実だったと聞かされた瑛子は、ヒステリー状態になってベッドから飛び降り、岡島が何と言おうと、いますぐチェックアウトをすると言って聞かなかった。けっきょく夜中の二時に、翌日以降の予約をすべてキャンセルして、ふたりはテムズ川沿いの小さくて陰気なホテルを出た。そして岡島が電話で部屋を交渉した超高級ホテルへと、霧に包まれた深夜のロンドンを黒い箱型オースチンのタクシーで移動したのだった。  岡島がその気になれば、仕事上のコネクションを使って真夜中に超高級ホテルへ突然チェックインすることもさして難題ではなかった。だったら、最初からそうしてくれればよかったのに、と瑛子はまた怒ったが、ともかく川越しに幽閉の塔が見える陰気なホテルから脱出したことで彼女は安心し、新しいベッドでふたたび眠りに落ちた。  だが、悪夢は終わらなかった。宿を代えた当日と翌日はなんでもなかったが、三日目からまた瑛子は赤毛の女のイメージに苦しめられた。ほとんど同じ内容の夢だった。冷たく湿っぽい感覚とともに、首をざっくりと切られた赤毛の女が夢枕に立ち、瑛子の顔を覗《のぞ》き込みながら白い霧を吐くのだ。  ただし、笛の音はもう鳴らなかった。ピーッと長く長く尾を引く『霧笛』は二度と響かない。けれども同じイメージの悪夢に、瑛子は何度もうなされた。一方、ツインベッドの片方で眠る岡島は、まったく夢にはうなされなかった。  やがて、瑛子の異常は眠りについているときだけではなくなってきた。夢から目覚めてもなお精神的な混乱が尾を引き、ときにはルームサービスの朝食をとっているさなかに、あそこに赤毛の女が立っている、と何もない壁を指して悲鳴をあげた。  瑛子は、またホテルを代わりたいと言いだし、岡島はその注文にまた応《こた》えて第三のホテルに移動したが、そこでも夜になると瑛子は同じ夢にうなされ、起きてもなお精神的不安定状態がつづくのも変わらなかった。そこで岡島は予定を早めに切り上げて、妻を日本に連れ戻すことにした。  帰国してすぐに、瑛子は岡島のすすめで神経科の診察を受けた。納得できる診断結果を得るために、年の変わり目をはさんで都合四カ所の神経科医を訪れたが、どこでも医者の言うセリフは決まっていた。ストレスによるものでしょうね、と……。 「最近の医者はね、自分の勉強不足を棚にあげて、ややこしい症例に直面するとすぐにストレスで済ませてしまう傾向があります」  岡島真佐之は、最初に氷室と会ったときに、これまでの医者の診断を厳しく批判した。 「だけど、勤めを辞めてしまっている瑛子にとって、ストレス要因といったら何ですか。家庭しかないでしょう。そして子供がいない私たちにとっては、家庭はイコール夫婦です。つまり、彼女の具合が悪くなった責任はぜんぶ私にあるみたいな診断をされたも同然なんです。これって失礼じゃないですか。私は認められないですよ」  岡島は氷室の前でそんなふうに憤慨してみせた。その態度は氷室に対する一種の牽制《けんせい》にも思えた。すなわち、氷室先生はストレス論なんかで逃げないで、ちゃんと合理的な説明をつけてくださいよ、というアピールに。  もちろん氷室は最初からありきたりのストレス論で逃げるつもりはなかった。それどころか、これは非常に興味をそそられる事例といってよかった。 「氷室先生、実際問題のところ、むごたらしい殺人現場となったホテルの部屋に泊まったことで、その被害者の亡霊が取り憑《つ》くことはあるんでしょうか」  岡島は真顔でたずねてきたが、氷室の中ではもちろん答えは出ている。いわゆるオカルト的な意味合いからいけばノーである。氷室が確認済みの超能力はもっと物理的なものであって、死者の怨念《おんねん》が取り憑くという心理面の現象を客観的に証明できた例はない。亡霊の憑依《ひようい》現象とは、あるときは自己暗示であり、あるときは周囲の関心を引くための本人の嘘であり、そしてあるときは他人が仕掛けたトリックであったりする。  では、岡島瑛子はどのケースにあたるかといえば、氷室は二つの要素が絡み合った複合形態ではないかと感じていた。  赤毛の外国人女性が実際に惨殺された部屋に泊まっていたと知ったショックで、瑛子がその部屋でみた夢は、たんなる悪夢ではなく、一種の心霊現象だと規定されてしまった。そして悪霊に取り憑かれたという思い込みによって、最初の夢が強烈に記憶回路に焼きつき、その結果、何度も何度も同じ内容の夢を繰り返しみるという展開になった。自己暗示がオカルトもどきの悪夢を呼び起こしてしまったのだ。  と同時に、氷室はそこに夫真佐之の作意があるのではないかと疑っていた。わざと妻に恐ろしいエピソードを披露し、彼女が精神的に錯乱する作戦を立てていたのではないか、という疑いが拭《ぬぐ》い去れないのだ。  それは決して邪推とは言い切れなかった。なにしろ瑛子は叔父《おじ》夫婦の突然の死によって巨額の遺産を受け継いだのだ。その財産を、夫の岡島がすべて自分のものにしたくなったという展開は、夫婦仲がギクシャクしていればじゅうぶんありうる話だった。  ブライダルヴェール滝の伝説にのせられて結婚したはいいけれど、いざいっしょになってみると性格の不一致が目立ち、新婚早々にして夫は不満を募らせる。そんなときに妻がおもわぬ大金を得たとなれば、夫の心によこしまな考えが浮かんだとしても不思議ではない。妻がはからずも手にした遺産を夫が勝手に使うには、妻が心の病に罹《かか》って正常な判断ができなくなってくれるのがいちばん都合よい。場合によっては正当な離婚の理由ともなりうる。  だから瑛子が赤毛の女の霊に取り憑かれてしまったのは、彼女が岡島真佐之の財産横取り作戦にうまくのせられてしまった結果とも受け取れるのである。実際、どうみてもふたりの仲は睦《むつ》まじいとは言い難かった。東京に住む岡島が、わざわざ京都の氷室想介カウンセリング・オフィスを訪れたのも、自分には妻を襲った心の病を治してやりたいという必死の思いがあるのだという、ある種のデモンストレーションにも受け取れた。  そうはいっても、オバケの話だけではたしてひとりの人間を狂うところまで追い込めるかという根本的な疑問も氷室にはあった。  岡島及び瑛子本人も認めるところによれば、ロンドン旅行を途中で切り上げて帰国しても、瑛子は立ち直るどころかますます具合が悪くなっていった。家ではベッドに血まみれの女がもぐり込んできたと言って騒ぎ、街を歩けば、そこの交差点に赤毛の女が霧を吐きながら立っていると言って公衆の面前で悲鳴を上げる。そして、ときには前後の脈絡なしに唐突に笑い出すなど、相当ひどい状態になっていた。  だが、いくら岡島の語った猟奇殺人譚が真に迫っていたとしても、それだけでここまでひどい妄想に取り憑かれてしまうとは氷室には思えなかった。  妻の精神を健全な状態に戻してほしいとの依頼を岡島真佐之から受けても、まずその背景にかなりの疑惑が出てきたため、氷室は夫妻には内密で、警察で言うところの『裏取り』を行なった。彼らが昨年末ロンドンで宿泊したタワー・ビュー・イン402号室における猟奇的な殺人はほんとうに起きたのかどうかの確認である。  氷室は十中八九そんな事実はないものと予測していた。それが岡島の作り話だと確認できれば、瑛子の財産を横取りする作戦の存在がはっきりする。  ところが——  当該ホテルに国際電話を入れて問い合わせると、意外な答えが返ってきた。ホテルの経営者でもあるという若い声をしたフロントの男は、氷室の質問に対してこう言った。宿のイメージが下がるので認めたくはありませんが、嘘《うそ》をつくのも神が許さないから正直に答えましょう。いまからおよそ五十年前、正確にいえば四十九年前の冬、霧の深い夜に当ホテルの402号室で、赤毛の若い女性が別れ話のもつれによって恋人だった男にナイフでむごたらしい殺され方をしました。私はまだ生まれていませんが、先代の父が事件の第一発見者で警察に届けたのです、と——  岡島が瑛子に語って聞かせた惨劇は事実だったのだ。  ただし、殺人現場となった402号室を岡島夫妻に割り当てたのはホテル側ではなく、岡島真佐之のほうから部屋を指定してきたのだという。惨劇の部屋と承知して予約を入れてくる日本人の悪趣味には正直言って腹も立ったけれど、断るとかえって妙な噂《うわさ》を広められそうなのでリクエストに応じました、とホテルの若き経営者は氷室に回答した。  ちなみに、402号室に泊まったら夜中に女の幽霊が枕元に出たとか、バスルームで誰かがシャワーを使っている音がしたなどという噂は、他の宿泊客によってもだいぶ喧伝《けんでん》されているという。迷惑な話でね、と男は面白《おもしろ》くもなさそうに言い添えた。  氷室は念のために事実関係を公式記録でも確かめてみることにした。さすがに四十九年前の新聞はデータベース化されていないだろうと思ったから、インターネットで調べるのはあきらめて、ロンドン在住の英国人の知人に依頼し、図書館で新聞のマイクロフィルムを調べてもらった。  たしかに事件は存在した。赤毛の女はタワー・ビュー・イン402号室で間違いなく殺されていたのである。 (まさか今夜、その女の幽霊にあうことになるんじゃないだろうな)  このままでは私は呪《のろ》い殺されてしまうかもしれない、という瑛子の思いつめた声を思い出しながら、氷室は車のドアを開けて外に出た。荷物は洗面道具を入れた小さなポーチひとつだけである。あとは携帯電話以外何も持っていない。  氷室はここが携帯電話の通話圏内であることを確かめるために、二つ折りの電話機を開いた。最近ではよほど山奥に行かない限り圏外の表示が出ることはないし、ここは天下のリゾート地・軽井沢である。ただ、森の深さが電波の障害になっていないかが気になったのである。  携帯電話の画面をチェックしてみると、最高受信感度を示す三本線がはっきり出ていた。ただし、問題はバッテリーの残量だった。電池の残りが非常に少ないことを示す警告マークが現れていたのだ。だが、氷室は充電器を携帯していない。  氷室はアシスタントの舞に、軽井沢にちゃんと着いたよと一報を入れておくつもりだったが、それはやめて急いで携帯電話の電源を切った。あとで舞から、どうして電話をくださらなかったんですか、と文句を言われるかもしれないが、非常事態のさいに警察への連絡をきちんととれるように、一秒でも長くバッテリーをもたせておかなければならないと考えたのだ。  妙な事件に巻き込まれなきゃいいがな、という田丸警部の言葉を思い起こしながら、氷室想介は携帯電話をポケットにしまい、軽井沢フォレスト・ロッジ12号室へと砂利《じやり》を踏みしだきながら歩いていった。 [#改ページ]    7 「いやあ、まいりましたねえ。どうもすみませんです、氷室先生。瑛子のやつがこんなところまでお呼び立てするとは思ってもみなかったもので」  晩秋の軽井沢によくマッチした色合いのセーターを着た岡島真佐之は、氷室想介の突然の来訪を知って、心底驚いた表情だった。氷室がくることは夫に話していないという瑛子の言葉に偽りはないようだった。  ただ、岡島の驚きぶりは、たんなる意外さだけではなく、まずいことになったな、という思いが含まれているように氷室には感じられた。予定が狂った、という舌打ちしたい気分が顔に出ていた。 「ともかく、中へどうぞ」  岡島は、A棟の中ではいちばん広い部屋になる一階左端の11号室に氷室を招き入れた。ログハウスというわけではなかったが、建物は森の中にあることを意識してウッディなインテリアで統一されてあった。  入口に近いところに木製キャビネットに収められたオーディオセットとテレビがあり、六人はゆうに腰掛けられるL字型のソファとテーブルが置いてあった。テーブルの上には飲みかけのウィスキーグラスがひとつ。  その応接部分の向こう側には、白木のツインベッドが並んで置かれている。が、片方だけしか使った形跡がない。ベッド脇《わき》の壁にはテニスラケットが一本立てかけられてあった。  この部屋で岡島夫妻がいっしょの時間を過ごした形跡がないことに、氷室はすぐ気がついた。片方しか使われていないベッド、たった一本しか見当たらないテニスラケット、そしてひとつだけ出されたウィスキーグラス。  氷室を出迎えた瑛子は隣の12号室から出てきたが、夫の岡島は明らかにこの11号室に寝泊まりしている。だが、隣り合わせになったふたつの部屋をつなぐコネクティングドアは見つからなかった。それぞれの部屋は完全に独立していた。 「で、先生は夕食はどうなさいます」  まだおたがいに立ったままの状態で、岡島は、まず食事の都合をきいてきた。濃霧の中を走ってきた氷室は、すっかり深夜に到着した気分になっていたが、よく考えたらまだ七時になるかならないかという時刻なのだ。 「私たちは、車でひとっ走りしてピザでも食べに行くかと話していたところなんですがね。ただ、瑛子のやつがまだお腹がいっぱいだというから、私たちも出かけるのを見合わせていたんです。……でも、そうだったのか、瑛子は氷室先生を待っていたから食事に出かけようとしなかったわけか」  岡島が二度発した『私たち』という言葉には、彼の妻である瑛子は含まれていないことが話の筋から容易に読みとれた。『私たち』とは岡島と、それから部屋の片隅に瑛子と並んで遠慮がちに立っているもうひとりの若い女性のことだった。  その女性に氷室が目を向けたので、岡島は彼女を手招きして呼び寄せた。 「紹介しておきます。こちらは瑛子が会社にいたころいちばん仲のよかった同僚で高橋朋子さん。で、朋ちゃん、こちらが精神……」  精神分析医の、と言いかけたところで岡島は思いとどまり、うまいぐあいにそのあとをごまかした。 「精神的にいろいろ瑛子の支えになっていただいている氷室想介先生で、えーと、心理学関係の研究をなさっているんだよ」 「いいのよ、真佐之」  長袖《ながそで》ブラウスの上から腕をさすりながら、無表情のまま瑛子が言った。 「私、朋子にはなんでも話してあるの。女の幽霊に取り憑《つ》かれてアタマがおかしくなっちゃったから、精神分析医の氷室先生のカウンセリングを受けているのよって、ぜんぶ話してあるんだから」 「あ……ああ、そうかい」  妻にミもフタもない開き直り方をされて、岡島はバツの悪そうな顔になった。高橋朋子と紹介された女性も、気まずそうにうつむいていた。  氷室はさりげない視線で瑛子の友人だという女性を観察した。  色白で細い身体《からだ》が控えめな印象を彼女に与えていた。岡島瑛子の場合は大きな瞳《ひとみ》が自我の強さを主張していたが、高橋朋子は、切れ長の日本的な目元が内向的な印象を与えていた。もしも岡島真佐之が結婚後ほどなくして妻瑛子の性格を疎ましいと思いはじめ、巨額の遺産相続によってなおさら強気の自己主張が際だってきた妻をいっそう毛嫌いするようになったならば、その対照的な雰囲気にある高橋朋子は、彼の関心を大いに引いたかもしれない——氷室はそう分析した。  いまの岡島の紹介ぶりをみても、高橋朋子は妻の親友というより、むしろ自分の恋人といった雰囲気だった。しかも、高橋朋子が着ているセーターは、デザインや色こそ違え、岡島の着ているのと同じメーカーのワンポイントマークが胸に入っていた。そういう点に、女の瑛子が気づいていないはずはないだろうと氷室は思った。 「で、氷室先生」  岡島はとってつけたような笑いを浮かべて氷室に向き直った。 「先生もおいでになったことですし、ピザなんてことを言わず、四人でゆっくりとイタリアンでも食べに行きませんか、私の車で」 「瑛子さんは?」  氷室は、自分を呼び寄せた瑛子の都合をたずねた。 「あなたはどうなさいますか」 「氷室先生が行かれるなら、私も行きます」  その言葉に、岡島が妙におどけた口調でまぜ返した。 「おやおや、なんだか瑛子と氷室先生は恋人どうしみたいじゃないか」  そこには氷室想介を邪魔者扱いするような、そして自分と朋子との関係をカムフラージュするような響きがあった。  それから一時間半後——  喧騒《けんそう》とは無縁の静かなイタリアン・レストランでの食事もひととおり終わり、瑛子と朋子が連れ立って洗面所へ立つと、岡島は勘定のためのクレジットカードを財布から取り出しながら、氷室のほうへ身体を傾け、声をひそめてたずねてきた。 「きょうはウチのやつがワガママ言って、ほんとうにお手をわずらわせ申し訳ありませんでした。で、瑛子はいったいどういう理由をつけて、先生を軽井沢くんだりまでお呼び立てしたんでしょうか」 「瑛子さんがぼくを呼び寄せた理由ですか。それは……」  ちょっと考えてから、氷室は岡島の反応を窺《うかが》うために、わざと思わせぶりな表現をしてみた。 「ボディガードみたいなものを頼まれた、ということでしょうね」 「ボディガード?」  岡島の眉間《みけん》にタテ皺《じわ》が入った。 「なんですか、それは」 「護衛という意味ですよ」 「いや、私にもそれぐらいの英語はわかりますが、何に対する護衛です」 「う〜ん……」 「まさか、アレですか? 赤毛の……」 「のようですね。このままでは私は呪《のろ》い殺される、というふうにかなり怯《おび》えておられたものですから」 「呪い殺される? まだそんなこと言ってるんですか、あいつは」  精算のためのクレジットカードをウェイターに手渡すと、岡島はタバコに火をつけ、苦々しげに顔を歪《ゆが》めた。 「赤毛の女の妄想を忘れさせるために、私は勤めの合間を縫って、こうやって瑛子を軽井沢までテニスに連れだしたんです。転地療養ってやつですよ。場所が変われば気分も変わるだろう、そう思って森の中の閑静なロッジまで予約したのに……」 「ロッジの予約は岡島さんがなさったんですか」 「そうですよ。あそこは私が瑛子と結婚する前からよくテニスで使っていましてね、ちょっと日本離れしたというか、ヨーロッパの森にいるような感じが好きなんです」 「しかし、軽井沢のようにわりあい霧の出やすい場所は、瑛子さんにとってどうだったんでしょうか」  氷室は、転地療養の場所の選択に疑問を呈した。 「じつはここへくるまで、高速の降り口周辺はものすごい濃霧で大変だったんですよ。事故も起こさずに着いたのが不思議なくらいで」 「じゃ、先生は軽井沢を選んだ私の判断が間違いだと」 「いえ、そうは申しておりません。ただ、なにしろきっかけがロンドンの霧ですからね。それと謎《なぞ》めいた笛の音」 「瑛子は甲高くて長い笛の音が聞こえたと、ずっと言い張っていますがね、隣のベッドで寝ていた私は、そんなもの聞いていないんですよ」 「ぜんぜん?」 「ええ。それに、夢をみるたびに毎回聞こえるというならともかく、タワー・ビュー・インの402号室に泊まった晩一回きりなんだから、夢に決まってますよ」  ウェイターがクレジットカードの伝票を持ってくると、煙が立ちのぼるタバコを口にくわえたまま、岡島はそれに乱暴な手つきでサインをした。そして、ウェイターが立ち去るとすぐに、露骨に不愉快な表情を氷室想介に向けた。 「とにかく、いつまでも霧のことばっかり意識していたら、瑛子の病気は治りませんよ。氷室先生からもそうおっしゃっていただけませんか。それとロッジに戻ったらおいしいワインがありますのでね、今晩は仕事のことなど忘れてゆっくりやりましょう」 「しかし、瑛子さんが……」 「いいんです、ほっといてください」  いつもの岡島と違って、露骨に彼はうるさそうな態度をみせた。 「あんまり甘やかしすぎても本人のためにならない。ここでまた氷室先生がやさしい顔をみせたら、先生がどこにいらっしゃろうが、自分がどこにいようが、瑛子はかまわず呼びつけるようになります。もちろん、きょう軽井沢までお越しになったお礼はいたします。でも、出張カウンセリングはなさらなくて結構です。氷室先生に頼るのがクセになりますから」 「私のほうも、出張カウンセリングというような改まったつもりはなかったんですよ」  氷室は穏やかに言った。 「ただ、瑛子さんの話し相手になればと」 「あれの話し相手は朋子がやってくれますよ」 「………」  一瞬、氷室は黙った。『朋ちゃん』ならまだしも『朋子』という呼び捨ては、妻の友人を第三者に向かって語る呼び方ではなかった。  岡島も、氷室の沈黙で自分の言い回しに失策があったことに気づいた顔になった。そして、失言をごまかすように、急に笑顔を浮かべて話題を換えた。 「ところで先生は何号室にお泊まりですか」 「えーと……荷物はとくにないから、まだ部屋の中には入っていませんが」  氷室は、瑛子から渡された部屋のキーをジャケットの胸ポケットから取り出し、その番号を確かめた。 「22号室ですね」 「22号室? そりゃ狭っくるしい部屋ですよ。なんで瑛子はそんな部屋に先生をお通ししたんだろう。気のきかないやつだな、今夜はA棟は我々以外に泊まり客はいないんだから、私の真上の部屋にすればいいのに、21号室に。私のところと同じ広さがありますからゆったりできますよ。どうもそういうところが気がきかないんだなあ、瑛子は。あれでも携帯電話会社で客相手の窓口にいたんですけどねえ」  岡島は、プロの添乗員として部屋割りに関する気配りは敏感なのだというところをみせた。が、氷室は、その部屋割りのことで気になる部分があった。 「つかぬことをうかがいますが、岡島さんは、さきほど私がおじゃました一階の11号室に昨日の晩からお泊まりですよね」 「そうですよ」 「で、瑛子さんのお友だちの朋子さんは一階の左から三番目になる13号室に」 「はい」 「そして瑛子さんは、その間の12号室」 「そのとおりです」 「ということは、瑛子さんの部屋は、私がもらったこの22号室の真下にあたるわけですよね」  氷室はチェーンの付いたキーをぷらぷらさせた。 「それが何か」 「いま岡島さんは、私に割り当てられた部屋はずいぶん狭っくるしいとおっしゃいましたが、すると、その真下にあたる瑛子さんの部屋も同じなのでは」 「ああ、そうなりますね。上下で同じ間取りでしょうから」 「でも、あなたはいちばん広い部屋にお泊まりです」 「悪いですか」  岡島は開き直った口調になっていた。 「では、ご夫婦はそうやって別々のお部屋に?」 「好ましい状態ではありませんよね」  岡島は、タバコを灰皿に押しつけ、自嘲的《じちようてき》に唇を歪めた。唇の両端がキュッと吊《つ》り上がって、笑う表情になった。 「でも、氷室先生だからもう隠さず正直に申し上げますが、あのロンドンの夜以来、夫婦の間に溝ができたのは事実です。亡霊の幻覚に取り憑《つ》かれた妻に冷たいことは言いたくはないけれど、こんな調子で精神状態が不安定でありつづければ、率直にいって愛情も醒《さ》めてきますよ。そして愛が失せれば、夫婦だからといっていっしょの部屋にも寝たくはなくなる。私が瑛子の心を治そうと懸命になっているのは、男としての義務であってね、義務と愛情は違います」 「ブライダルヴェール・フォールの誓いは消えたというわけですか」 「よく覚えてらっしゃいますね」  岡島は苦笑した。 「私もそろそろ添乗員を辞めたいと思っているのも、あの思い出の場所に仕事で行くのがつらくてね……あ、戻ってきたようですね」  トイレのほうから瑛子と高橋朋子が出てきたのを見て、岡島は最後は早口になった。 「ともあれ、夫婦が別々の部屋に泊まっているのが不自然なのは認めますよ。たしかにおかしいですよね。氷室先生が不審に思われるのももっともです。だから今夜は瑛子のやつを私の部屋にこさせます。なるほど昼間に気分転換でテニスをやっても、夜は別々では意味がないかもしれません。三十と二十六という若さでスキンシップがないのは淋《さび》しいかぎりですが、ひさしぶりにじっくり瑛子と話をしてみることにします。ですから氷室先生はどうぞ瑛子のワガママにはおかまいなく、ゆっくりおやすみになってください。ドライブの疲れもおありでしょうし」  四人がふたたび車に乗り込むと、岡島真佐之は、助手席に座った妻の瑛子に向かって早速切り出した。 「なあ、瑛子。今夜はぼくの部屋にこいよ。明日はもう東京に戻らなきゃいけないから、今晩ぐらいゆっくりと夫婦の時間を持とうじゃないか」  しかし、それに対する瑛子の返事はそっけなかった。 「けっこうよ。私はあなたの隣の部屋で寝ますから」  岡島は、その返事は予測済みとばかりに表情を変えず、そこで氷室の名前を利用する手に出た。 「じつはきみがトイレに行ってる間、氷室先生にも言われたんだよ。なぜご夫婦で別々の部屋におやすみなんですか、ってな。それでぼくもハッと我に返ったんだ。昼間はいっしょにテニスを楽しみながら、夜になったら別々の部屋で寝る夫婦がどこにいるんだって。年老いた夫婦ならともかく、ぼくたちは結婚二年目、まだ新婚の部類だよ。それなのに、わざわざ別の部屋で寝る不自然を少しも不自然だと思わなくなっていた。それに気づいて、ぼくも反省したんだ。きみに対するやさしさが、いつのまにかなくなってしまっていたんじゃないか、と」 「いつのまにか、じゃないわ。あなたのやさしさがなくなったのは、あの夜から。ロンドンで私が霧笛を聞いた夜からよ」  淡々とした口調だけに、瑛子の言葉には皮肉すら混ざらぬ強い拒絶の意思が込められていた。 「赤毛の女の亡霊に悩まされる妻なんかといっしょに寝るのはご迷惑でしょうし」 「瑛子……」 「とにかく、私は私の部屋で寝ますから」 「でも、狭いだろうが、12号室は」 「狭いのは平気」 「そんなことはないはずだ。ロンドンのあのホテルに着いたとき、瑛子は言ったじゃないか。狭っくるしい部屋は大きらいと」 「いまは平気なの。だいたいチェックインのときに別々の部屋にしたいと私が言ったら、じゃあ12号室にしろと決めたのはあなたよ」 「それはたんにぼくの隣の部屋だからだよ。そんな狭い間取りだとは知らなかったんだ。とにかくぼくといっしょに寝たくないにしても、せめて部屋は移れよ」 「どうしてこだわるの」 「氷室先生の前で、冷たい亭主だと思われたくないもんでね」  岡島は、バックミラーで後部座席の氷室の反応をチラッと窺《うかが》った。 「自分だけ広い部屋に寝て、奥さんを狭い部屋に押し込めるなんてさ。ああ、そうだ、瑛子。忘れるところだった。氷室先生にも21号室へ移っていただけよ。それからきみもせめて朋ちゃんの向こう側の14号室へ変わったらどうだ。12号室と22号室だけがとりわけ狭いみたいだから」 「とにかくだいじょうぶ、ゆうべだってあの部屋で寝たんだし」  取りつくしまもないという妻の態度に、岡島はそれきり口をつぐんで運転だけに集中した。後部座席の氷室も朋子も口が挟めないのはもちろん、咳払《せきばら》いも憚《はばか》られる気詰まりな雰囲気だった。 「あ、霧」  ロッジに近づいたころ、瑛子がヘッドライトに照らし出された前方を見つめてつぶやいた。 「霧が出てきたわ」  軽井沢の森に、うっすらと白いものがかかりはじめていた。 [#改ページ]    8  ロッジに戻ると、岡島はそれでも気を取り直して、自分の部屋で氷室にフルボディの赤ワインをふるまうと言い出した。氷室は断る理由もないので11号室で岡島につきあった。そのさい氷室は、瑛子と友人の朋子にもいっしょに飲みましょうと誘った。このままそれぞれの部屋に引き揚げられては、あまりにも後味が悪かったからだ。  瑛子は氷室の誘いには素直に従ったが、取り立てて会話に加わるわけでもなく、夫から離れた席に座って、部屋備え付けのコーヒーメーカーでいれたコーヒーを飲んでいた。朋子は岡島の隣に座り、自分はワインに軽く口をつける程度だったが、岡島と氷室のグラスが空くたびに、ボトルからワインをつぐ役を受け持っていた。どちらが岡島の妻なのかわからないな、と氷室は思った。  岡島は、もっぱら添乗員としての仕事上の失敗談や、ツアー客にもいろいろな人間がいるといった業界裏話を愉快そうに語った。ワインもタバコも量が進み、いつのまにか部屋の空気はかなり霞《かすみ》がかかってきた。  ノンスモーカーの氷室は空気の汚れが気になったが、岡島はいっこうにかまう様子がなく、タバコをスパスパ吸いつづけながら上機嫌で話をつづけた。氷室はそれに適度に相づちを打ち、高橋朋子もときどき会話に加わったが、瑛子はときおりコーヒーに口をつける以外は、ほとんど身動きもせず無言のままだった。  すると、一時間ほど雑談をつづけたところで、岡島が用事を急に思い出したといった口調で瑛子に向き直った。 「そうだ、ちょっときみの部屋の鍵《かぎ》を貸してくれないか」 「私の部屋の?」  ひさしぶりに言葉を発したので、瑛子の声はかすれぎみだった。 「なんで?」 「消炎スプレーがほしいんだ」  右腕を左手で揉《も》みながら、岡島は言った。 「二日間ぶっつづけでテニスやったら、さすがにあちこちの筋肉が痛くてさ。たしか、さっき瑛子に渡したよな」 「ええ。それじゃ、いま持ってくるわ」 「いいよ、ぼくが取りに行ってくるから、きみは氷室先生とゆっくり話でもしてろよ」  岡島は吸いかけのタバコを灰皿に押しつけて消し、ここにキーを載せてくれとばかりに手のひらを上にして右手を差し出した。 「さっきから瑛子は黙ってばかりだけど、ぼくがいると先生と話がしにくいんだったら、しばらくここでふたりきりになったらどうだ。スプレーをとったあと、ぼくは朋ちゃんとそのへんをぶらっと散歩していてもいいから」 「気にしないで。私は氷室先生がそばにいてくださるだけで気持ちが落ち着くから、それでいいの」  片手を差し出す夫を無視して、瑛子はスッとソファから立ち上がった。 「それに、スプレーのあり場所を説明するのもめんどうだから、自分で取ってきたほうが早いわ」  それはさらっと聞き逃せる、どうということのない内容の会話に思えたが、氷室は、瑛子からキーを渡してもらえなかった岡島が、かなり暗い表情になったのを見逃さなかった。  いったん部屋から出ていった瑛子は、アフタースポーツ用の消炎スプレーを持ってすぐに11号室に戻ってきた。だが、それまでひとりでしゃべっていた岡島は、急に無口になり、スプレーが入り用だったはずなのに、妻から手渡されたそれをすぐに使おうともせず、考え事にふけっていた。四人の間に沈黙が漂った。  しばらくしてから、岡島は氷室に軽く頭を下げて言った。 「先生、申し訳ないんですが、私、ちょっと席をはずしていいですか。瑛子とふたりだけで話したいことがあるので」 「ああ、それでしたら、もう時間も遅いですし、私は二階の部屋に行きますよ」  十一時を回った時刻を指す掛け時計を見上げながら、氷室はソファから腰を浮かせようとした。実際のところ、氷室はもうもうたるタバコの煙に辟易《へきえき》していたのだ。  だが、岡島は立ち上がりかけた氷室を押しとどめた。 「いや、まだいいじゃないですか。先生はここで朋ちゃんとワインを飲んで待っていてください。隣の部屋でちょっとだけ話をしてすぐ戻ってきますから」  ところが、そこでも瑛子は夫の言い分に逆らった。 「話があるなら外でしましょう。狭い部屋にふたりも入って膝《ひざ》を突き合わせたら、私、窒息しちゃうわ」 「さっきは狭い部屋は平気だと言ったくせに」 「ひとりならね。でも、ふたりじゃイヤ」 「タバコは吸わないから」 「吸わなくてもイヤ」 「………」 「とにかく話があるんだったら外へ行きましょう」 「もういい。こっちの言うことに逆らってばかりなら、もういいよ」  急に機嫌が悪くなって、岡島はグラスに残っていた赤ワインを一気にがぶ飲みした。そして空になったグラスを高橋朋子に突き出して言った。 「朋ちゃん、もっと注《つ》いでくれ」 「でも、もうほとんど残っていませんけど」  朋子はボトルを岡島に示した。 「じゃ、洗面所の脇《わき》にもう一本置いてあるから、それも開けてしまおう」  その先は、岡島の飲みっぷりはほとんどヤケといってもよかった。決して弱くはないのだろうが、急性アルコール中毒を起こすのではないかと氷室が懸念するほどハイピッチで飲みつづけ、二本目はほとんどひとりで空けてしまい、あげくに「氷室先生、酔っぱらったのでお先に失礼します」と真っ赤な顔で断りを入れ、着替えもせずにベッドに倒れ込むと、あっというまに寝入ってしまった。  妻の瑛子は、そんな夫の姿をじっと見つめている。とくに介抱をしようというのでもなく、かといって軽蔑《けいべつ》のまなざしを投げるでもなく、どちらかといえば注意深い観察眼のようなものを向けていることに氷室は気がついた。 「瑛子」  高橋朋子がつぶやいた。 「岡島さん、このままにしちゃって、いいの?」 「だいじょうぶよ。彼がこれぐらい飲むのは珍しくないから」 「でも、ピッチが速すぎたわ。もしもぐあいが悪くなったら……」 「心配?」  朋子に向き直って、瑛子はきいた。その質問には微妙な含みがあった。 「それは心配だけど、でも、瑛子がだいじょうぶっていうなら」 「気になるんだったら、この部屋にいっしょに寝れば? 彼も喜ぶんじゃない」 「ちょっと瑛子」  そばにいる氷室を気にして、朋子はあわてた。 「へんなこと言わないでよ……じゃ、かんたんに片づけだけしておくわ」  妻の瑛子は何もしようとしないのに、朋子は応接テーブルの上に出されたグラスなどを手早く片づけ、洗面所できれいに洗って棚の上に置いた。ますますどちらが岡島の妻かわからないふるまいだった。  ベッドで大いびきをかいている岡島を置いて、三人が11号室を出たのは、ちょうど真夜中の零時を回ったところだった。  最後に部屋を出たのは瑛子で、彼女は外からドアノブを引っぱって、完全にロックされたのを確かめていた。ロッジの各戸のドアは自動ロック式で、扉を閉めるだけで鍵《かぎ》が掛かってしまう。 「ねえ、へいきかしら」  不安げに朋子がきいた。 「なにが」 「鍵を中に残したままロックしちゃって。もしも岡島さんの具合が悪くなったら、外から開けられないのよ」 「へいきよ。なにしろ彼は添乗員さんだもん」  瑛子はフッと薄笑いを浮かべた。 「旅先のトラブルには慣れてるから、なんでも自分で対処するわ」  そして瑛子は隣の12号室へ入ろうとしたが、それを氷室が呼び止めた。そして彼は、高橋朋子に先に自分の部屋——13号室へ入るようにうながしてから、瑛子と12号室のドアの前で立ち話をした。 「瑛子さん、ほんとうにだいじょうぶですか」 「だから朋子にも言ったように、彼はお酒は強いですから」 「そうじゃなくて、あなたのことですよ、瑛子さん」  氷室は大声にならないように注意しながら話をつづけた。 「昼間私に電話をかけてきたあなたは、かなりせっぱ詰まった声を出しておられました。このままでは呪《のろ》い殺されるかもしれない、と」 「ええ」 「赤毛の女の呪いが恐ろしいから、私を軽井沢まで呼んだんでしょう」 「そうですけど、おかげさまでもう平気になりました」 「どうして」 「彼が酔っぱらっちゃったから」  瑛子は、固く閉ざされた11号室のドアに目をやった。 「まさかあんなふうに自分からワインをがぶ飲みするとは思わなかったけれど、さすがにあそこまで飲めば朝までぐっすりでしょう。だから安心なの」 「ということは……ご主人が眠ってしまえば、あなたは恐《こわ》くない」 「そうです」  まだ隣の部屋のドアに目を向けたまま、瑛子はうなずいた。 「それでも念のためにドアは内側からちゃんと二重ロックしておくつもりですし、庭に出られるガラス戸も、きっちり鍵を掛けておくつもりです」 「ちょっと待ってください、瑛子さん」  氷室は、瑛子の深層心理にある夫への恐怖を読みとった。 「するとあなたが恐れているのは、赤毛の女の幽霊ではなく、ご主人である岡島真佐之さんのほうなんですか」 「どっちもです」  ゆっくりと氷室に顔を向け直しながら、瑛子は答えた。 「どっちも恐いんです。でも、最近では真佐之のほうが恐い」  瑛子の吐く息がかなり白くなっている。深夜になって軽井沢の気温は急激に低下してきていた。そして、ロッジを取り囲む森のシルエットが、かなりぼんやり霞《かす》みはじめている。このあたりまで、あの濃密な夜霧が押し寄せてきたのだ。 「先生、私、真佐之に何をされるかわからない。それが恐いんです」  けっきょくそれがホンネかもしれない、と氷室は思った。幽霊は金に目が眩《くら》まないが、生身の人間は金目当てで悪魔にもなれる。叔父《おじ》夫婦から巨額の遺産を相続して以来、夫に対してかなり強い疑心暗鬼の念が瑛子に生まれたのは確定的だった。そして、その夫が転地療養だといって、このような森の中のロッジを予約すれば、その意図を深読みして不安にかられたとしても不思議ではない。 「ひとつ質問をさせていただきたいのですが、さっき岡島さんが消炎スプレーを取ってきたいので、瑛子さんの部屋の鍵を貸してほしいと言われましたよね」  氷室はさきほどのさりげない、しかし気にかかる夫婦のやりとりについてたずねた。 「しかし、あなたは鍵を貸そうとせず、自分で取ってくるとおっしゃった。岡島さんはそれでも自分で行くと食い下がったが、あなたがウンと言わないため、かなり不満そうな顔になりましたよね。しかも、あなたが部屋から持ってきたスプレーを、まったく使おうとはしませんでした。私としてはちょっと引っかかるやりとりだったんですが」 「さすがですね」  瑛子は大きな瞳《ひとみ》で氷室を見つめた。 「私も変だと思いました。だから鍵を貸さなかったんです」 「ご主人を警戒されたわけですか」 「そうです。彼は明らかに私の部屋に入りたがっていました。スプレーを取りにいくことが目的じゃない。それがほんとの目的なら、最初から彼は私に取ってきてくれと命令します。レディファーストのやさしさなんて、最近ではまったく見せてくれない人ですから」 「なるほど」 「彼は、ひとりだけで私の部屋に入りたがっていました。そのための言い訳は消炎スプレーでもなんでもよかったんです。そのことがわかったから、直感的に彼を私の部屋には入れないほうがいいと思ったんです」 「ご主人の狙《ねら》いは何だと思いました」  氷室がきいた。 「たとえば、あなたが個人的に管理している通帳や印鑑などをここに持ってきておられるのですか」 「いいえ、ぜんぜん」  瑛子は首を横に振った。 「真佐之に見られたり持ち出されたりして困るものは何も持っていませんし、たとえ泥棒《どろぼう》が入っても、この12号室には盗むものなんて何もありません。お財布とクレジットカードはフロントのセーフボックスに預けてあるし、バッグの中にあるのはほんの小銭程度ですし」 「では、ご主人があなたの部屋に入りたがっていた目的は何なんでしょう」 「………」  瑛子は12号室の扉を見つめたまま、しばらく黙っていた。  が、やがてポツンと小さな声でつぶやいた。 「先生、テレビドラマみたいなことを考えていると笑わないでくださいね。私、真佐之が部屋に何かの仕掛けをするんじゃないかと思ったんです」 「部屋に、仕掛け?」 「赤毛の女に出会うような仕掛け。私が幽霊をみてしまうような仕掛け。そういうものをセットして、私の心をもっともっとめちゃくちゃにしようと狙っているのではないかという気がしてならないんです。私が先生に訴えた『呪い殺される』かもしれないっていうのは、幽霊に呪われるんじゃなくて、幽霊に怯《おび》えている私の精神状態を真佐之が利用して、もっとひどいことをするんじゃないかっていう恐さなんです」 「もっとひどいこととは」 「……言えません」 「そうですか」  氷室は、瑛子の夫不信が相当なものであるのを感じた。 「ところで、お友だちの高橋朋子さんですが」  氷室はいちだんと声をひそめてたずねた。 「彼女をここへ呼び寄せたのもあなたなんですね」 「はい」 「その理由は」 「氷室先生にきていただいたのと同じ理由です。一種の護衛です。彼も私の親友がいる前で妙なことはしないだろうと思って」  しかし、瑛子の親友であるはずの高橋朋子が、妙に岡島真佐之と親密ではないかという疑問が氷室にはあった。その件をいま口にすべきかどうか迷ったが、まだそのタイミングにあらずと判断し、氷室は立ち話が長くなりすぎないよう、これで切り上げることにした。 「ともかく瑛子さん、私もいまから自分の部屋に引き揚げますが、万一、夜中のあいだに何かおかしなことがあったら、遠慮なく起こしてください。あいにく私のケータイはバッテリー切れ寸前なので待ち受け状態にしてはおけませんが、部屋どうしの内線電話がありますからね」 「わかりました……あ、そういえば」  瑛子はいま思い出したという顔になった。 「さっき彼に言われましたけど、先生のお部屋、狭いところを選んでしまってすみません。21号室のほうに換えるようにフロントに頼みましょうか」 「いいですよ、もう遅いし、シャワーだけ浴びてあとは寝るだけですから、広い部屋なんて要りません。それにあなたの真上に陣取っているほうが、何かあったときに好都合でしょう。緊急事態があれば天井を叩《たた》いて知らせてくれてもいいし、私の部屋から真下に飛び降りれば早い。それぐらいの運動神経は私にもありますから」  氷室は笑顔をみせた。 「じゃ、瑛子さん、おやすみなさい」 「おやすみなさい」  氷室に会釈をして、瑛子は12号室のドアを開けて中に姿を消した。  室内からカチャッと二重ロックを掛ける音がしたのを確認してから、氷室は高橋朋子が入った13号室からその隣の14号室の前を通り、A棟右端に設けられた階段を使って、ほかに宿泊客がまったくいない静かな二階へ上り、22号室のドアを開けた。  安手のビジネスホテル並みに、その部屋は狭かった。 [#改ページ]    9  シングルベッドひとつと、小さなデスクがひとつあるだけの部屋に入ると、氷室は真っ先にシャワーを浴びることにした。真夜中の零時をすぎていたが、寝る前に頭と身体《からだ》は洗っておきたかった。  軽井沢の霧に包まれるのはミステリアスな魅力もあるが、岡島真佐之の口から吐き出されるタバコの煙に包まれるのはかなわない。ノンスモーカーにとっては、髪の毛や服に染み込んだタバコの煙が、時間をおいてから放つ臭気が耐え難いのだ。  想像したとおり、バスルームはこれ以上小さなサイズはないかと思えるほどのユニットバスで、浴槽に身体ごと浸《つ》かろうとするには、脚の長い氷室でなくとも膝《ひざ》を抱えるようにしなければ無理である。  最初からシャワーだけのつもりだった氷室は、浴槽の中で立ったままカーテンを引いて湯を出した。とりあえず湯はじゅうぶんに熱かったし、勢いも強かったので氷室はホッとした。底冷えのする晩秋の軽井沢で、ちょろちょろとしか出ないシャワーだったら風邪《かぜ》を引いてしまう。  シャンプーとリンスが一回分ずつつながった袋を切って、ゴシゴシと髪を泡立てる。髪の毛を洗ったあとは、薄っぺらな石鹸《せつけん》の包装を剥《は》がして、それで身体を洗う。どうにかニコチンとタールの成分を洗い流したころには、狭いバスルームにはもうもうたる湯けむりが立ち込めていた。  バスタオルで頭を拭《ふ》きながらバスルームのドアを開けると、その蒸気がベッドルームのほうへも流れ出し、ちょうどバスルームと向かい合わせになっているクロゼットの扉に張り付けられた鏡を曇らせた。  氷室はそのクロゼットのハンガーに脱いだジャケットとズボンを吊《つる》し、その扉は開け放したままにしておいた。閉めてしまうと服についたタバコの匂《にお》いがまたこもってしまうからである。  タオル地のバスローブといったしゃれたものは備え付けてなかったが、ベッドの上には浴衣《ゆかた》ではなく、洋風のパジャマのLサイズが置いてあった。いちおうそのへんは、森のロッジというイメージを考えてのことと思われた。ミニサイズながら冷蔵庫もあったので扉を開けると、ビールやコーラ、ウーロン茶、スポーツドリンクなどが入っている。氷室は缶入りのウーロン茶を開けて、一息に飲んだ。そして改めて狭い部屋を見回した。  窓際の隅に小さなテレビがひとつ。そしてベッドの足元のほうの壁際に、鏡付きの小さなデスクがある。デスクの端にはひとり用の小さな湯沸かしポットがひとつと、コーヒーカップがひとつ。そしてインスタントドリップ式のコーヒーパックがふたつ用意されていた。  デスクの大きな引き出しには、お決まりの宿泊約款や施設案内の綴《と》じ込まれた大型ファイルが入っていて、小さな引き出しは、上のほうには聖書が、最初から半開きになっている下の引き出しには小型のヘアドライヤーが入っていた。  ちょうど髪を乾かす必要があった氷室はそのヘアドライヤーを取りだし、バスルームへ向かったが、そこのコンセントは、ひげそりなどの低電圧のものしか使えない作りになっていた。湯気がもうもうと立ち込め、水滴もかかる場所での感電事故を防止するための電圧規制である。  それで氷室はまた戻り、デスクの鏡の真下に二連のコンセントがあったのを見つけて、そこにプラグを差し込んだ。そしてガーッという音とともに吹き出される熱風を髪に当てながら、なおも観察の目を室内のあちらこちらに走らせた。  もしも、瑛子の『呪《のろ》い殺される』という言葉が、夫に対する究極の不信を表わしているのだとすれば、亡霊の演出よりももっと深刻な仕掛けが、岡島によってなされているかもしれない、と氷室は感じていた。  もっと深刻な仕掛けとは、密室殺人——  しかも、犯人は泥酔状態のまま、被害者を殺すという密室殺人のトリック。そんなドラマ仕立ての空想を逞《たくま》しくしたくなるほど、岡島真佐之の発言と行動には不自然さがつきまとっていた。  氷室から夫婦別々の部屋で寝ている不自然さを指摘されたせいかどうかわからないが、彼はまず瑛子に今夜はいっしょに広い部屋で寝ようと提案した。その申し出をあっさり蹴《け》られると、こんどは理屈をつけて瑛子の部屋へひとりで入ろうとした。そして、それも断られると、いきなり赤ワインのがぶ飲みをはじめ、ただ酔いつぶれることだけを目的としたようなハイピッチの飲み方で、あっというまに彼は沈没した。  少なくとも、酔っぱらって前後不覚になってしまったのは演技ではなかった。あの調子では、朝まで爆睡して起きないだろう。しかし、その激しい酔いつぶれ方も、氷室の目には一種のアリバイ工作とすら映っていた。  どうですか氷室先生、私はほら、このとおり酔っぱらって何もできませんよ、と、その状況を見せつけるために。  氷室がいるこの22号室は、おそらく下の12号室とほとんど同じ間取りであるはずだ。違いといえば、一階では中庭側に直接出られるガラス戸があるけれど、二階はそれが小さなベランダに通じているという違いぐらいだろう。  瑛子はドアはきちんと二重ロックを掛けていたようだし、庭のほうのガラス戸も戸締まりをきちんとすると言っていた。そして11号室と12号室との間に、行き来できるコネクティングドアはない。だから瑛子の部屋に侵入しようとするには、庭側のガラス戸を叩《たた》き割るか、部屋のドアをぶち破るよりない。そういった乱暴な手段をとることなく、誰にも気づかれずに静かなる殺人をやり遂げるのはまず不可能だ。  しかも、犯人になりうる当の岡島は泥酔しているし、問題の部屋の真上には氷室が陣取っている。この条件下で、瑛子の身に何か危険が及ぶということはまず考えられなかった。  ただ、当初は幽霊の妄想に怯《おび》える妻の精神状態を治療するという目的だったのが、わずか三カ月ばかりのうちに、予想もしなかった方向へ問題が変わってきた。夫婦の亀裂《きれつ》が明確となり、妻の相続した財産にからむ夫への疑惑という、そちらの構図のほうがはるかに事態は深刻だと、氷室は気にかけていた。  考え事をしているうちに頭もすっかり乾いたので、氷室はドライヤーを切り、髪を整えるためにバスルームへ入って洗面台の前に立った。換気扇を回し忘れたので、シャワーの湯気がまだこもっていて、大きな鏡が曇っていた。  その鏡の脇《わき》にくぼみが刻んであることに気づいた氷室は、そこに指をかけて手前に引いてみた。鏡ごと扉のように開いて、中に間仕切りをした棚のあるのが見えた。  空のコップが二つ伏せておいてあるほかには何もない。宿泊客が果たして気づくかどうかわからない、あまり意味のない隠し戸棚だった。  その扉をふたたび閉めると、また鏡に映った自分の顔と見つめあう形になった。 (湯気……か)  曇った鏡を手で拭《ぬぐ》い、そこに映った自分の顔を見つめながら、氷室は、岡島瑛子から聞かされた夢の内容を思い出していた。殺された赤毛の女が夢枕に立ち、口から白い霧のようなものを瑛子の顔めがけて吐き出している。そして、ピーという呼び子のような甲高い笛の音が延々と響き渡ったという、あの夢——  笛の音のおかげで瑛子は金縛り状態から解けた。寝るときに豆電球ひとつにしていたはずの部屋が、もう少し明るくなっていた。バスルームの明かりが洩《も》れてきているようだった。そして、隣のベッドで寝ているはずの夫がいない。名前を呼ぶと、岡島はバスルームのほうから駆け寄ってきて、時差のせいで中途半端な時刻に起きてしまい、トイレに立っていたと説明した。その夫に笛のことをたずねても、そんな音は聞いていない、きっとそれは瑛子の夢の中の出来事だろうと言った。  瑛子から聞かされた状況を思い起こしながら、氷室は、いま自分が立っているバスルームの中から室内に目をやった。真正面がクロゼットである。ジャケットやズボンを吊《つる》したまま開けっ放しになっているクロゼットの内部まで、バスルームの照明が差し込んでいた。問題の夜、タワー・ビュー・イン402号室でも、同じようにクロゼットの扉は開けっ放しになっていて、ふたりのコートが吊《つ》り下げられているのが瑛子の視野に入ったという。 (亡霊の口から吐き出された白い霧が顔にふりかかる——瑛子さんがそういう夢をみたのは、実際に402号室にもうもうと湯気が立ち込めていたからではないのだろうか。霧ではなくて、湯気が……)  そんな発想が湧《わ》いた。  この部屋ほどではないにせよ、ロンドンでの第一夜を迎えた部屋も相当に狭かったらしい。だとしたら、シャワーを使ったときの湯気が、扉を開けたとたんにベッドのほうへ流れ出してゆき、眠っている瑛子に湿っぽい感触を与えたかもしれない。バスルームの照明が洩れていたという記憶からも、その可能性は高そうだ。  瑛子が最初に京都のオフィスをたずねてきたとき、彼女は鼻をひくひく動かしながら「このお部屋、乾燥しすぎていませんか」と、いきなり問いかけてきた。そんなふうに湿度に非常に敏感という特異体質を持っているなら、瑛子がわずかな湿度の変化を察知して、それを夢の内容に取り込んでしまうことはあったかもしれない。  しかし、瑛子が目覚めたとき、岡島はちゃんとパジャマを着ていたというし、彼の髪の毛や肌が濡《ぬ》れていたという事実も、氷室は聞かされていない。 (ちょっと実際にやってみるかな)  下着一枚の格好のまま、氷室はさっきと同じようにバスルームのドアを閉め、熱いシャワーを出しっぱなしにした。そして目の前が霞《かす》んでしまうほど湯気が立ち込めたところでドアを開け、バスルームの外に出て、ベッドの上にあおむけに寝た。  氷室は目を閉じ、バスルームから流れてくる湯気をベッドの上でも感じられるかどうか、意識を集中した。  なんとなく湿っぽい感じは伝わってきた。だが湿気よりも、むしろさっき使ったシャンプーや石鹸《せつけん》の香りのほうが鼻についた。つまり湯気の存在は、湿度の変化としてではなく、嗅覚《きゆうかく》で捉《とら》えられるのだ。もしも石鹸ぽい匂《にお》いがなければ、眠っている人間がバスルームから洩れてくる湯気に気づくことはなさそうだった。 (湯気が悪夢を呼び起こしたという説はハズレのようだな)  氷室は腹筋を使ってベッドから起きあがり、湯冷めをしないよう備え付けのパジャマを羽織った。そして、熱いコーヒーを入れるために電気ポットのところへ近寄った。  デスクのコンセントにつながれた電気ポットは、沸騰済みを示す保温ランプが点《つ》いていたが、念のためにふたを開けてみると、熱い湯気が氷室の顔めがけてモワッと一気に立ちのぼってきた。 (また湯気か)  その熱さに顔をそむけてから、氷室はポットのふたを閉め、カップにセットしたフィルターに熱湯を注ぎはじめた。  そのとき、またも氷室の頭に新しい連想が展開した。  熱湯——湯気——湯沸かし——ヤカン—— (そうだ、瑛子さんが聞いたピーッという笛は、もしかして沸騰するヤカンが立てる音だったんじゃないだろうか)  沸騰していることを知らせる笛が注ぎ口に付いたヤカンは、とくに欧米ではよく見かける。広い家では、大きな音を立ててお湯が沸きましたよと知らせる必要があるからだ。瑛子が聞いた長く尾を引く『霧笛』は、そういう笛付きのヤカンが沸騰して立てた音だとすれば、亡霊の口から吐き出された白い霧の感触も、延々鳴りやまない笛の音も、いっぺんに説明がつくような気がした。 (岡島氏は、夜中になにかの理由でヤカンで湯を沸かしていた。それも、ベッドのかなり近くで。眠っていた瑛子さんはその湯気を肌で感じ、沸騰したときにヤカンが立てるピーッという鋭い音を聞いた)  氷室は、瑛子がみた悪夢の背景に、そういった現実の場面が重なっていただろうと推測した。そして、それがどういう意味合いを持つのかを必死に探ろうとした。 (そういえば瑛子さんが起きたとき、彼女は夫がパジャマのズボンのポケットに何かを押し込むのを見た気がすると言っていたな。銀色をした何かを)  氷室は、瑛子のその目撃談を、あえて岡島真佐之本人にぶつけていなかった。よけいな詮索《せんさく》をすると、夫婦間の亀裂がなおさら広がりそうだったからだ。ともあれ、瑛子が最初の悪夢に襲われた時点で、すでに夫の真佐之は不審で不可解な行動をとっているのだ。 (岡島氏がポケットに隠そうとした銀色のものは何なのか)  考えながらコーヒーを一杯飲み、さらにもう一杯飲みしているうちに、時刻は午前一時を回り、さらに二時に近づいていた。だが、氷室は最初から睡眠をとるつもりはまったくなかった。今夜は岡島瑛子のボディガードとして呼び寄せられたのだ、という認識が、氷室を眠りにつかせなかった。  岡島真佐之が、妻の瑛子に悪意に満ちた行為を仕掛ける動機はじゅうぶんにある。  ふたりの夫婦愛は結婚二年目にして崩壊していた。亀裂を急速に拡大させた要因は、瑛子の巨額な遺産相続。思いもかけぬ大金を得た瑛子は、ソリの合わぬ夫と別れて新しい人生を歩もうとした。それを察した岡島は、まずは妻の機嫌を取り持って離婚を押しとどめようとする。だが、どうやっても瑛子の気持ちが変わりそうにないので、ついに策を弄《ろう》してでも、財産を自分のものにしようとする。  その手法のひとつは、瑛子から正常な精神状態を奪い、財産管理を思うままにコントロールしたうえで、瑛子のほうに責任がある形で離婚へこぎつけるやり方だ。  財産を横取りする第二の方策はもっと直接的で、瑛子が離婚話を具体的に切りだしてくる前に、ふたりが法的な夫婦でいるうちに彼女に死んでもらうことだった。そして去年の暮れ、ロンドン旅行を組んださいに、岡島は悪意の存在が証明しにくい第一の作戦から着手した。瑛子の頭を狂わせる作戦から……。  瑛子の悪夢や幻覚の裏には、そうした岡島の財産横取り計画が横たわっているのは間違いないと氷室は考えていた。だが、その作戦が瑛子に与えた効果に関しては、まだ納得のいかない部分がずいぶんあった。  こうやって軽井沢でじかに会ってみても、たしかに瑛子の心のバランスは完璧《かんぺき》とはいえないが、街を歩いているときに亡霊を見たり、突然笑い出したりするほどひどい精神状態にあるとはとても思えなかった。  では、瑛子は瑛子で、夫の作戦にのったふりをして、狂った演技をしているのだろうか。考えれば考えるほど岡島夫妻のことがわからなくなってきた。 [#改ページ]    10  時計をみると、いつのまにか午前三時を回っていた。『倫敦の霧笛』や『赤毛の女の亡霊』の謎《なぞ》に取り組むあまり、さすがの氷室の頭脳もだいぶ過熱していた。そこで少し頭を冷やそうと思って、氷室は窓際へ行き、ベランダに出るガラス戸を開けた。 (すごい霧だ……)  真正面には真っ黒な森が広がっているはずだったが、湯気で曇っていたガラス戸を開けたとたん、氷室が目にしたのはミルク色の霧だった。軽井沢へくるときに高速道路の出口周辺からしばらくつづいた乳白色の世界——あれと同じ密度の霧が、氷室たちが泊まっているロッジへ押し寄せていた。  ベランダのところまで漂ってきた霧は、その微粒子のひとつひとつに部屋の照明を受け、氷室の目の前できらきらと輝いていた。霧は夜風にあおられ、氷室の顔をぺろりと撫《な》であげた。パジャマ姿の氷室は、その冷たさにゾクッと身を震わせた。  と、そのとき氷室は、沸騰するヤカンの立てる音が、瑛子が聞いた『霧笛』だとする結論に疑問を感じた。 (ちょっと待てよ。バスルームにこもった湯気は、同じ水滴の粒子でも、この冷たい夜霧とはまったく別物だ。この独特の冷たさは、シャワーの熱湯からは絶対に生み出せない。沸騰したヤカンから噴き出した蒸気ではなおのことだ。ヘタをしたらヤケドをするほど熱いんだから。そんな湯気や蒸気から、亡霊を連想させる暗く湿った霧のイメージなど生まれるわけがない)  亡霊の口から吐き出されるオカルティックな白い霧、それが瑛子の顔になだれ落ちてくる夢うつつのイメージは、風呂場のシャワーや沸騰したヤカンから生じる熱い湯気では絶対に作ることができない。霧は湿気を含んだ温かい空気が、冷たい空気に当たって急激に冷やされてできるのだ。熱して作る蒸気と、冷やして作る霧との決定的な違いに氷室は気がついた。もしも瑛子の顔に実際に霧状のものが降りかかってきたとすれば、それは熱せられた湯気ではなく、冷たい水の微粒子でなければならないのだ。  それに瑛子から聞かされたような簡素な客室だったら、家庭のキッチンで使うようなヤカンを沸《わ》かす設備はないだろうということにも思い至った。 (では、岡島氏は、瑛子さんの顔に何かをスプレーしていたのだろうか)  岡島真佐之が銀色のものをパジャマのポケットに突っ込んだという瑛子の記憶——それがスプレー説を裏付けそうな気もする。だが、スプレーで液体を吹きつけられたら、顔ははっきりと濡《ぬ》れるし、その感触によって笛の音などを待たずにすぐ目を覚ますはずだ。  たしかに濃密な霧でも顔は濡れた感じになるが、霧の粒子が非常に小さいため、スプレーで水を吹きつけたような濡れ方にはならない。たとえば女性が顔に潤いをもたせるために使うフェイシャルスプレーなどは、噴霧される水溶液の粒子はかなり大きい。だから皮膚に附着したとき、シャボン玉が破裂するように水滴が壊れて『しっとり濡れる』という現象が起きる。  一方の霧は、あまりにも粒子が小さいからこそ空中にいつまでも漂っていられるし、人の皮膚や物に当たっても水分の微粒子が壊れないために、湿気は感じても濡れるところまでいかないのだ。霧雨と濃霧との違いもここにある。  だから、岡島が妻の顔めがけてスプレーを吹きつけたら、霧に包まれた感じにはならず、雨に濡れた感じになるはずだった。  かといって、濃霧の夜に窓を開け放っていたとしても、室内まで霧が入ってくれば、部屋の空気と混ざり合って、その存在感はすぐさま消えてしまう。窓際にでも寝ていないかぎり、ベッドにいながら霧に包まれる感覚にはならないだろう。  では、あのロンドンの夜に何があったのか。  森の奥からこんこんと湧いてくる白い霧を眺めながら、氷室はじっと考えた。 (ブライダルヴェール・フォール)  岡島真佐之と瑛子が愛の言葉を交わした、あのヨセミテ国立公園の滝のことが、ふと思い出された。 (硬い花崗岩《かこうがん》質のために滝壷《たきつぼ》を作らないヨセミテの滝は、その周囲で猛烈な水煙をあげる。それが花嫁のヴェールに似ていることから、水煙を浴びたカップルは結ばれるという伝説が生まれた。ツアー添乗員として、その場所をたびたび訪れていた岡島氏の頭には、なんらかの形で水煙のヴェールという着想がこびりついていなかったか)  枕元で覗《のぞ》き込む赤毛の女の口から吐き出される白い気体は、ロンドンの夜霧とも思えるが、上から下へなだれ落ちるという点では、猛烈な水煙を舞い上げる滝のイメージでもある。 (滝のような霧——水煙のような霧——水煙——湿度差に敏感)  夜霧を見つめる氷室の脳裏で、突如、新たな連想の環がまとまった。 「そうか!」  おもわず氷室は叫んだ。こんどこそ正解にたどり着いたと思った。 「そういう手があったか」  同時に、氷室は顔色を変えた。 (瑛子さんが危ない)  いま、氷室想介の脳裏には『霧を利用した密室殺人』の手法が、密室殺人を可能にするトリックが思い浮かんでいた。たとえ被害者が完全にロックされた部屋の中にいても、そして犯人自身が完璧《かんぺき》な泥酔状態にあっても実行できる手段が見つかったのだ。 (こうしちゃいられない)  氷室は乳白色の夜霧に包まれたベランダから、部屋の中に急ぎ足で戻った。そしてあわただしくパジャマから洋服に着替えた。瑛子が眠っている12号室の点検に行くためだ。すでに時刻は午前三時を回っていたが、そんな時間のことは気にしていられない。瑛子が眠りについている深い時間帯であるからこそ、危険は差し迫っていた。  氷室が考えついた仕掛けが瑛子の部屋にセットされていたら、すでに密室殺人は実行段階に入っている可能性が高い。  タバコの匂《にお》いをとるためハンガーに吊《つる》しておいたポロシャツとスラックスをふたたび身につけ、急いで靴を履いた氷室は、12号室へ先に電話連絡を入れて瑛子の無事を確かめるべきだと思い直し、ベッドの脇《わき》に置いてある受話器を取り上げた。  そして瑛子の部屋番号をプッシュしようとしたとき——  ピーーーーーーーーという、甲高い笛の音が響き渡った。 [#改ページ]    11  氷室は、驚いてベランダに飛び出した。まさかという音が聞こえてきた。  ピーーーーーーーーという、長い長い笛の音が、ミルク色の霧に包まれた空間のどこかで鳴っている。濃霧のロンドンで悪夢にうなされていた岡島瑛子が聞いたという、その音色とおそらく同じものと思われる笛の音だ。『倫敦の霧笛』は瑛子の夢や幻聴ではなく、現実に存在する音だったのだ。  だが、氷室にはまだその音の正体がわからない。ほんとうに笛の音なのか、それとも別の音源なのか。霧を利用した密室殺人のトリックは見抜けたものの、笛の正体はまだつかめていなかった。  ベランダに出た氷室は、耳をすませて音の方角を確かめた。真下の部屋からだった。12号室、瑛子が眠っている部屋だ。  氷室は迷わず行動に出た。もう階段を駆け下りるような手間はかけていられない。ベランダの手すりを乗り越え、白い霧の中へジャンプした。  真下の地面は芝生で、氷室が着地する衝撃を和らげてくれた。すぐさま中庭側から部屋の中を覗こうとする。が、ガラス戸は内部からカーテンが引かれていて中の様子が窺《うかが》えない。しかし、明らかに笛のような音は12号室の中から聞こえていた。 「瑛子さん」  氷室は大声で呼びかけた。 「瑛子さん、起きていますか」  氷室はガラス戸を手のひらで叩《たた》いた。バンバンバンと、窓ガラスが振動で震える。  しかし返答がない。そして、いままで途切れることなくつづいていた甲高い笛の音がぴたりと止んだ。  静寂——  霧の中に響き渡っていた笛の響きの唐突な停止は、まるで殺人完了の合図のように氷室には思えた。  庭側からいくら呼んでも反応がないので、氷室は紗《しや》のかかった白い闇《やみ》の中を走ってロッジの表側に回り込んだ。11から14まで番号のふられたドアが並んでいる。岡島真佐之が酔いつぶれているはずの11号室は無視して、12号室のドアに取り付くと、氷室は激しくドアをノックした。 「瑛子さん、瑛子さん」  すると、いきなり隣のドアが開いた。11号室のほうではない。13号室のドアだった。そして、そこから顔を覗かせたのは高橋朋子ではなかった。 「瑛子さんじゃないですか!」  氷室は驚きの声をあげた。午前零時にそれぞれの部屋に引きあげるとき、朋子が入っていったはずの部屋から岡島瑛子がパジャマ姿で出てきた。 「あなた、こっちの12号室で寝ていたんじゃないんですか」 「最初はそうでした。でも、朋子が夜中に電話をかけてきて」 「朋子さんが? なぜ」 「どうしても岡島さんのことが気になるからって、あんなに飲み過ぎてだいじょうぶだろうかって、ほんとの奥さんみたいな心配のしかたをするんです」  瑛子は髪の毛を乱暴にかき上げて言った。 「だから私、だったらこっちの部屋で寝ればいいじゃない、って言ったんです。隣どうしだったら、真佐之が死にそうなうめき声を出せばよく聞こえるわよ、って。そして部屋を交換したんです」 「じゃあ、12号室には朋子さんが」 「ええ」 「でも、いくら呼んでも返事がないんですよ」 「ぐっすり寝ているんじゃないんですか」 「これだけ呼んで、これだけドアを叩いて起きないはずはない。隣で寝ていたあなたが起きてきているのに」 「………」 「そうだ、瑛子さん。あなたもいま聞きましたね。笛の音を」  氷室がたずねると、瑛子は硬い表情でうなずいた。 「ロンドンで聞いたのと同じものでしたか」 「はい」 「赤毛の女の幽霊をみたときに聞こえたのと同じ霧笛なんですね」 「そうです」  瑛子の唇は小刻みに震えていた。 「私が聞いたのは、夢じゃなかったんですね」 「たぶん」  短く答えてから、氷室は戸口に立つ瑛子のほうへ駆け寄った。 「ちょっと部屋の電話を貸してください。電話で呼んでみよう」  氷室は、瑛子の許可をとって13号室の中に入った。12号室ほど狭くはない。シングルベッドは瑛子が跳ね起きた形跡があり、部屋の明かりはナイトランプが点《つ》いているだけだ。  瑛子がそばで見守る中、氷室は13号室の部屋番号をプッシュした。受話器から聞こえる呼び出し音と連動して、壁越しに12号室で鳴るベルの音が聞こえてきた。しかし、いくらコールしつづけても応答はない。隣から延々と電話ベルの音が聞こえてくるばかりだった。 「まずいな」  氷室は唇を噛《か》んだ。 「これはまずいですよ、瑛子さん」 「どこかに出かけているんでしょうか」 「こんな夜に、ですか」 「もしかして真佐之の部屋かもしれない。電話をして中から開けてもらって……」  それはありうる話だと思った氷室は、11号室に電話をかけた。  こちらも何度コールしても返事がない。それであきらめて切ろうとしたとき、カチャリと回線のつながる音がした。 「はい」  くぐもった声は岡島真佐之のものだった。短い返事につづいて、泥酔しているところを無理やり起こされた者が出す、低くて不機嫌なうなり声を洩《も》らした。 「こんな時間に起こしてすみません。氷室です」 「何時ですか、いま」 「三時すぎです」  岡島が叩き起こされたことに対する不満を並べ立てる前に、氷室が先制した。 「そちらの部屋に高橋朋子さんが行ってませんか」 「私の部屋に? なんでここに朋ちゃんがいなくちゃならないんです」 「じゃ、いないんですね、そちらには」 「いませんよ」 「とにかく、起きてきてもらえませんか。大至急で」 「どういうことなんだ」 「もしかして大変な事態が12号室で起きているかもしれないんです」 「瑛子に?」 「そうじゃなくて、朋子さんにです」 「朋子に?」  また岡島は、妻の親友を呼び捨てにした。 「瑛子さんと朋子さんは、寝る部屋を入れ替わってたんですよ」  そして氷室は、皮肉に聞こえるのを承知で言い添えた。 「あなたにとって予定外のことだったかもしれませんが」 「………」 「とにかく急いでください。私は表にいなければ、中庭のほうに回っています」 「それで瑛子は」 「ここにおられますよ。13号室のほうにね」  それ以上岡島の応答を待たずに指先でフックを押すと、氷室はこんどは9番をプッシュした。フロントデスクである。マスターキーを持ってきてもらうつもりでかけたのだが、深夜勤務を置いていないのか、こちらもまた延々虚しくコール音が鳴り響くばかりである。 「仕方ない。これ以上待つわけにはいきません」  電話を置くと、氷室は出入口のドアに戻るのではなく、ベランダのほうへ進んでガラス戸を開け、中庭に出た。 「どうするんですか」 「瑛子さんもきてください」  よけいな説明をせず、氷室はベランダからまた中庭側に出た。そして、いきなり右足でガラスを蹴破《けやぶ》った。バリーン、という大きな音とともにガラス戸の一枚が砕けた。  あっけにとられる瑛子を尻目に、氷室は割れ目から手を突っ込んで施錠をはずし、戸を引き開けて、カーテンを左右に分けて中に入った。  部屋の中は真っ暗だった。が、同じ造りなので照明の位置はすぐにわかる。氷室はフロアスタンドのスイッチを入れた。  目を閉じたままベッドにあおむけに横たわり、微動だにしない高橋朋子の姿が目に入った。  そして、霧——  部屋の中に霧が湧《わ》いていた!  ベッドの頭の方向には目覚まし用のラジオなどを置くためのスペースがある。観葉植物の小さな鉢植えも置いてあった。そしてその脇《わき》から、こんこんと白い霧が湧き上がっているのだ。そしてその霧は、あおむけになった朋子の顔になだれ落ちていた。 (やっぱり)  氷室は自分の推理が正しかったのを確認した。  と同時に、部屋の空気がおかしいことも敏感に察知して、いったん外に出た。 「瑛子さん、あなたはきちゃいけない!」  自分も中へ入ろうとしていた瑛子を、氷室は押しとどめた。 「もっと離れていてください。庭のほうへもっと」 「どうして? 朋子がどうかしたんですか」 「とにかく、この部屋の空気を吸っちゃだめだ」  それだけ言うと、氷室は霧まじりの外気を思いきり吸い込んだ。そして息を止め、一気に室内へダッシュした。  まず彼はすばやく表側の入口へ行き、二重ロックをはずしてドアを思いきり外に押し開けた。表のドアと中庭側のガラス戸の両方が開いたことで、冷たく新鮮な外気が部屋の中に流れ込んできた。  氷室はそのままいったん表側に出て、そこでまた深呼吸をした。そしてふたたび息を止めて部屋に戻った。  高橋朋子が横たわるベッドに駆け寄り、掛け布団を撥《は》ねのける。朋子は瑛子と同じように、ロッジ備え付けのパジャマを着ていた。その背中の下に氷室は右手を差し入れ、強引に彼女の身体《からだ》を引き起こした。寝る前にシャワーを浴びていたらしく、髪の毛は生乾きの状態だった。  だらりとなった朋子の上半身を自分の右肩に載せる。そして米俵でも担ぐような要領で、朋子の体重を片方の肩でしっかり支え、氷室は立ち上がった。  この間、彼はまったく呼吸をしていない。枕元の飾り棚からこんこんと湧き上がる白い霧は、朋子がいなくなったあともベッドの枕になだれ落ちている。それを吸い込むわけにはいかなかった。  すっかり意識を失っている朋子を担いだ氷室は、どちらに行こうか迷ったが、表側に出るのが早いとみて、そちらへ急いだ。  鏡付きのデスクに、朋子を担いだ自分の姿が映るのを氷室は見た。救出というよりは拉致《らち》と呼んだほうがいい格好だった。朋子は氷室の背中のほうに髪の毛と両手を垂らし、彼女の腰を支点にして、氷室は朋子の両脚を押さえてバランスをとっている。  その鏡のすぐ下、デスクの中央に設けられた二連コンセントは、ふたつともふさがっていた。ひとつには携帯電話を載せた急速充電器がつながれ、もうひとつには、氷室の部屋と同じように湯沸かしポットの電源コードが差し込まれていた。しかし、なぜかポットのランプは点《つ》いていない。保温中のランプも沸騰中のランプも点灯していなかった。  コードをはずしたままのヘアドライヤーもデスクの上に出してあった。  そういった状況を一瞬にして網膜に焼きつけながら、氷室は高橋朋子を担いで外に出た。部屋からだいぶ離れたところの草むらに氷室は朋子の身体を下ろした。そして、ようやく空気を思いきり吸い込んだ。  肩を激しく上下させて荒い息をつきながら、氷室はあおむけにした高橋朋子の頭を自分の膝《ひざ》に載せ、腕の脈をとった。瞳孔《どうこう》の状況も調べた。呼吸も確認した。 (まにあった、まだ生きている) 「先生、いったいどうしたんですか」  ロッジの建物をぐるりと回って、中庭のほうから瑛子が走ってきた。 「朋子、どうなっちゃったんです!」  その顔は引きつって泣き出しそうだった。 「だいじょうぶ、まだ息はあります。瑛子さん、あなたの携帯電話ですぐ一一〇番に連絡を入れてください」 「一一〇番!」  瑛子は目を丸くした。 「一一九番じゃないんですか」 「どっちでもいっしょですよ。とにかく瀕死《ひんし》の急病人がいるから早くと!」  そう命じてから、氷室は高橋朋子の状況を自分で説明すべきだと思い直し、瑛子に向かって言い直した。 「私が電話に出ます。とにかく急いでケータイを貸してください」  氷室に言われて瑛子が13号室から携帯電話を取って戻ってくるのと同時に、11号室の扉が開いた。まだ酔いから完全に醒《さ》めていない岡島真佐之がゆうべの服装のまま出てきて、ふらついた足どりで氷室のほうへ近づいてきた。  最初に岡島は妻の瑛子と目が合った。携帯電話を氷室へ手渡そうと走ってきた瑛子は、そこでピタッと足を止めた。が、岡島はすぐに妻から目をそらし、そして氷室の膝元に高橋朋子が倒れているのを目にして驚愕《きようがく》の表情を浮かべた。 「朋子!」  アルコールの赤味をまだ残した顔をこわばらせて、岡島は叫んだ。  隠しようのない男女の関係がこもっている響きだった。もはや岡島の視野には、妻の姿が入っていなかった。  氷室は、とっさに瑛子の顔を見た。裏切りを確認した怒りと、人間性への軽蔑《けいべつ》が入り交じった表情になっていた。その冷たく燃える眼差《まなざ》しは、夫に対してだけでなく、意識不明状態になっている『親友』に対しても向けられていた。 「と、ともこおお」  足をもつれさせながら、岡島は氷室の膝に抱かれた高橋朋子のところへ駆け寄った。 「どうして、どうしておまえが、こんなことに」  パジャマ姿のまま意識を失っている朋子は、返事もしないし、ぴくりとも動かない。その右手を、岡島は両手で包み込むように握った。 「死なないでくれ、朋子。死ぬな、朋子」  その悲嘆にくれる岡島の様子は、氷室の推理が的中していることをはっきりと証明していた。  そばに立って夫のありさまをじっと見つめていた瑛子は、意識的にゆっくりとした動作で氷室に携帯電話を差し出した。指先は氷室に向けられていたが、視線は親友に取りすがる夫にずっと向けられている。 「私」  朋子の手を握りしめて涙を流す夫を、醒めた目で見下ろしながら瑛子はつぶやいた。 「最悪の状況に置かれているみたい……ですね」  氷室は静かにうなずくと、朋子の頭を自分の膝に載せたまま瑛子から携帯電話を受け取った。そして、岡島に向かって厳しい口調で問いかけた。 「岡島さん、もしも本気で朋子さんの命を救いたいなら、あなたが使用した毒物の名前をいますぐ教えてもらえませんか。救急車に連絡しますから」 「………」  朋子の手を握ったまま、岡島は凍りついた。そこまで氷室に読まれているとは予想もしなかったショックで、すべての動作が止まっていた。 「さあ、早く」  氷室はうながした。 「あなたが仕掛けた毒物の名前をおっしゃってください。|奥さんの瑛子さんを殺すために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》タイマー付きの加湿器に混入した毒の種類を」  それを聞くと、岡島は骨が折れたような唐突さで、ガクッと首をうなだれた。  氷室の問いに答えなければ、愛する高橋朋子の命は救えない。このアクシデントは自分のあずかり知らぬところと主張すれば、それは朋子に対する適切な救命処置を遅らせ、彼女を死へと導くことになる。かといって、氷室の問いに答えることは、おのれが密室殺人の仕掛け人であることを告白するに等しい。  そのジレンマに悩み、岡島は悶《もだ》えた。が、ついに彼は後者を選んだ。高橋朋子の命を救い、自分を牢獄《ろうごく》へと送り込む選択をしたのだ。  毒物の名を告白する夫を見ながら、妻である瑛子の頬《ほお》には、霧よりも冷たい涙が伝い落ちていった—— (これで悲劇は終幕か)  一一九番に通報をしたあと、氷室想介は、自分のすぐそばで草むらに手をついてうなだれたまま動こうとしない岡島真佐之をじっと見つめていた。  あとは駆けつけた救急車に高橋朋子を引き渡して彼女が吸飲した毒物を説明し、捜査陣に対しては、精神分析医としての守秘義務の範囲内で、これまでの背景と今夜の出来事に関する推理の展開を述べていくだけだった。  それで岡島真佐之の仕掛けた犯罪に対する自分の役目は終了する、と氷室は思っていた。あとは『主治医』として瑛子のメンタル面でのアフターケアをしていくことだけが残されている、と。  もしもそこで岡島真佐之の頭髪や衣服から発せられる臭いを嗅《か》がなければ、そしてその臭いが新たな連想を氷室の頭脳に浮上させなければ、事件はそこで終わっていた。  だが——  氷室想介の五官すべてに張りめぐらされた真実探求のセンサーが、最後の大逆転を察知した。 [#改ページ]    12  氷室の膝《ひざ》に抱かれた高橋朋子のそばで、自らの犯罪を認め、がっくりと頭を垂れる岡島真佐之は酒臭かった。あれだけワインを急ピッチで飲めば、呼気にはまだ大量のアルコールが含まれている。精神的興奮によって荒くなった呼吸が、アルコールを含んだ呼気の排出ピッチをさらに速めていた。しかし、それだけでなく、ノンスモーカーである氷室の嗅覚《きゆうかく》は、岡島の身体《からだ》が発散するもうひとつの臭いを敏感に捉《とら》えていた。タバコの煙によるニコチン・タール臭である。  ノンスモーカーだけでなく愛煙家自身にとっても、頭髪や衣服に染みついたニコチン・タールが時間をおいてから放つ饐《す》えた臭いは耐え難いものがある。その臭いが、岡島の身体から漂ってきて氷室の鼻孔を刺激した。  そしてその嗅覚の刺激が、氷室に何かを思い起こさせた。それが何なのか、すぐにはわからない。しかし本能が「臭いに気づけ」と氷室に知らせている。  ほとんど無意識のしぐさで氷室は身体をかがめ、膝に載せた高橋朋子の生乾きの髪に顔を近づけた。見ようによっては、彼女の額に口づけをするような動作にも受け取れた。が、それは朋子の髪の匂いを確認するためだった。 (タバコの臭いがまったくない)  氷室の頭脳にひとつのデータが叩《たた》き込まれた。 (髪の毛からも顔からも、そして首筋からもニコチン・タールの臭いはまったくない)  昨夜だけをみるかぎり、高橋朋子には喫煙の習慣がなさそうだった。氷室も含めた四人の中でタバコを吸うのは岡島真佐之だけである。瑛子もタバコは吸わないし、かなり煙を嫌うほうなのは氷室も以前から聞かされていた。  しかし岡島はそんなことはおかまいなしに、四人で行ったイタリアン・レストランでも禁煙席はとらず、ロッジに戻ってから11号室で飲んでいるときも、絶えずもくもくと煙を立てていた。行き帰りの車中で吸わなかったことだけが、氷室にとってはせめてもの救いであったほどだ。  そんな状況だったから、氷室の髪の毛や洋服にはイヤというほどタバコの臭いが染みついたし、それはいっしょにいた高橋朋子や妻の瑛子も同じであったはずだ。だから氷室は、自室に引きあげると真っ先にシャワーを浴びた。そして、部屋を交換する前か後かはまだわからないが、朋子も瑛子も同じようにシャワーを浴びてニコチン・タール臭を落としたに違いない。タバコを吸わない女性は、ことのほか髪の毛についた臭いに敏感だから、就寝前のシャンプーをしないはずがない。それは朋子が倒れていた12号室の鏡の前にヘアドライヤーが出してあったことでも想像がつくし、彼女の髪も濡れていた。それに瑛子の身体からもタバコの臭いはしていなかった。 (だから、何なんだ。なぜ、タバコの臭いのことが、いまぼくは気になって仕方がないのか)  氷室は、自分の本能が伝えようとしているものを、まだ把握できずにいた。自分の推理のどこかが間違っているという警告だということはわかるが、いったいどこが間違っているのか。 (あ、そうか。笛のことがあった……)  氷室は、肝心の謎《なぞ》をまだ解いていないことに気がついた。『霧笛』の正体である。  岡島瑛子が霧に包まれた夜のロンドンで聞き、そして今夜、氷室自身が軽井沢の霧の中で耳にした長く甲高い笛の音。  それは明らかに高橋朋子が意識を失っていた12号室から聞こえてきた。その発生源が何であったかを、まだ自分は解いていないではないか。それを突き止めないかぎり、ほんとうの正解は得られないぞと、本能が警告していたのだ。  それに気づくと、こんどは脳の片隅に記録された視覚データが氷室にヒントを投げかけてきた。  ついさきほど、呼吸を止めて必死の救出作業をしている最中に、霧笛の発生源と思われるものを自分の網膜が捉《とら》えていなかったか。朋子を肩に担いでドアから出ようとしたとき、鏡付きのデスクへチラッと走らせた視線。そこに何か重要なものを捉えていなかったか。 (鏡に映った、高橋さんを担いでいる自分の姿? いや、そういうものではない。もっとさりげないもので、しかし頭の片隅に引っかかる光景があったような気がする)  デスクの上には電源コードの抜かれたヘアドライヤーが置いてあった。それから携帯電話用の急速充電器。こちらはデスクのコンセントにつながれてあった。その充電器にセットされていた携帯電話は、高橋朋子のものであるはずだ。瑛子が勤めていたのと同じ携帯電話の販売会社にいまもなお在籍中の朋子にとって、それはごくありふれた日常携帯品のひとつだったろう。  二連のコンセントにはもうひとつ、ロッジのどの客室にも備えられている湯沸かしポットがつながっていた。そしてその保温ランプは……。 (そうだ!)  なにかモヤモヤとした引っかかりが頭の片隅にあった、その原因がつかめた。湯沸かしポットのランプだ。  電源コードがきちんとデスクのコンセントに差し込んであったにもかかわらず、ポットの電気は切れていた。  それはなぜか。  自問自答した氷室の大脳で高速演算が行なわれ、そしてついに彼はこんどこそ正解を導いた。『霧笛』の正体を、そして今夜、霧の中で起きた悲劇のほんとうの真相を。 [#改ページ]    13 「瑛子さん」  氷室は小さくつぶやいたつもりだったが、静まり返った未明の病棟に、その声は思った以上に大きく響いた。  軽井沢の国道沿いにある救急病院に搬送された高橋朋子は、いま懸命の治療を受けている。毒物を仕掛けたことを認めた岡島真佐之も、すぐには軽井沢署へ連行されず、刑事らとともにこの病院へ直行した。朋子の解毒治療のために、『犯人』である岡島から医師が直接薬物の詳細を聞き出す必要があったからである。  その間、氷室と瑛子は人けのないロビーのベンチに腰掛けて待っていた。朋子の回復状況を待っているのではない。いま岡島と朋子のほうにかかりきりになっている担当捜査官が、こちらへ戻ってきて事情聴取を行なうのを待っているのだった。  ただでさえ病院の待合室には陰鬱《いんうつ》な空気が漂っているものだが、未明の時間帯はまた格別である。わずかに灯された常夜灯が、磨き上げられたリノリウムの床に青白く歪《ゆが》んだ光の帯を投げかけている。その光の帯は、遠近画法のように収束する廊下の果てまで、断続的につづいていた。  救急救命室は、その廊下の果てを曲がってさらに進んだところにある。だからそちらの慌ただしさはロビーまでまったく伝わってこない。掛け時計のチッチッチッと時を刻む微かな音も耳につくほどの静寂。 「瑛子さん」  いちだんと声を落として、氷室が言った。 「これから私たちは別々に事情聴取を受けることになると思いますが、その前に急いであなたに説明しておかなければならないことがあります。まず第一は、岡島さんがあなたにどんな道具を使って何をしようとしていたのか、という点です」 「さっき朋子が倒れている部屋の中を見て、もうわかりましたわ」  そう答える瑛子の顔は血の気が引いて白くなっていたが、大きな瞳《ひとみ》に宿った意思の存在は、あいかわらず強烈だった。 「加湿器……だったんですね」 「ええ」  瑛子の横顔を見ながら、氷室はうなずいた。 「タンクに溜《た》めた水を気化することによって、乾きがちな空気に潤いを与えるものです。加熱して水蒸気を出すものではなく、タンクに入れた水を超音波で噴霧するタイプです。おそらく彼はヨセミテ国立公園の滝壷《たきつぼ》のない滝——ブライダルヴェール・フォールなどが硬い花崗岩《かこうがん》質の岩石に当たって産み出すもうもうたる水煙から、その超音波式加湿器を使おうというヒントを得たのかもしれません。私もヨセミテには何度か行ったことがありますが、あの水煙の微粒子に包まれると、まさに霧の衣をまとった気分になりますからね」 「加湿器はうちでもふつうに使っていました」  瑛子は言った。 「私、乾燥した空気に弱いんです。だからそういうものが部屋に置いてあっても、とくに私は不思議には思いませんでした」 「けれどもロンドンの客室には、おそらく目に見えるところには置いてなかったはずです。それなりにかさばるものですから、日本から持ち込んだのではなく、海外ツアーの添乗員としてロンドンを訪れたさいに地元で用意しておいて、ひそかにタワー・ビュー・インに預けておいたと思われます」 「それを私が眠っているときにセットしたんですね」 「加湿器から出される水の霧が、枕元の台の上などから眠っているあなたの顔に注がれれば、それは滝の水煙のようでもあり、ロンドンの夜霧が部屋の中に忍び込んできたようでもあり、ある種の先入観があれば、赤毛の女の亡霊が吐き出す謎《なぞ》めいたエクトプラズムに思えたかもしれません。しかもタンクの中に入れてあったのが通常の水道水ではなく、もっと別の液体であればね」 「そのときから彼は加湿器の中に毒を入れていたんでしょうか」  深刻な顔で瑛子がきくと、氷室は首を横に振った。 「いや、狭い部屋に自分もいっしょに泊まっていたわけですから、危険な毒物は使えませんよ」 「ああ、そうですよね」 「これはまだ私の推測ですが、初期の段階では、岡島氏はあなたの精神状態をどこまで狂わせることができるかという、そちらの作戦をとっていたものと考えられます。だからこそ、タワー・ビュー・イン402号室という殺人現場をわざわざ宿泊の場に選んで、赤毛の女の惨劇のイメージを寝る前にあなたの脳裏に焼きつけた。そのイメージに加えて、加湿器になんらかの幻覚作用のあるものを入れたかもしれない」 「麻薬とか覚醒剤《かくせいざい》……ですか」 「いきなりそこまでは行かないでしょう。水溶性のものであっても粉末の薬物を使用しては加湿器の機能にも障害をきたします。それより、もっともっと単純なものを使ったと思いますね」 「単純なものって」 「たとえば、お酒」  氷室は、まさに単純きわまりない物質の名前を口にした。 「拝見したところ、あなたはそれほどお酒が飲めるほうではない。私たちが部屋でワインを飲んでいるときもコーヒーでしたしね。そんなあなたに、睡眠中ずっと高濃度のアルコールの霧を噴霧しつづけていたらどうなるか。本人が意識しないうちに身体《からだ》がその影響を受け、いわゆる金縛り状態や悪夢も産み出しやすい状況になる。その一方で、酒豪の岡島氏にとってはお酒の霧は何の影響もないどころか、快適なシャワーだったかもしれません」 「………」  瑛子はうつむき、病院の名前の入ったスリッパをじっと見つめていた。  氷室が提示した推理は、コロンブスの卵ともいうべきシンプルかつ意表をついたものだった。初めは特殊な薬物ではなく、酒を噴霧して、岡島は超音波式加湿器の効果を確かめようとしていた。  だが、岡島の作戦はそんな生やさしいレベルで終わるものではなかったし、氷室の推理もまた、そこで終わるわけではなかった。 「あなた自身が疑っておられたように、岡島氏は、あなたが突然相続した巨額の遺産を横取りしたうえで、うまいぐあいにあなたと別れることを考えていました」  氷室は、今回の事件を引き起こした岡島真佐之の動機を確認した。 「じつに虫のいい望みですが、岡島氏はたんなる願望を超えて本気になっていました。そして、彼をそこまで本気にさせた大きな要因が……」 「朋子だったのね」 「そういうことです」  氷室はうなずいた。 「あなたの親友ということは、朋子さんはたぶんヨセミテなどの旅行にもいっしょに行かれたと思いますが」 「そうです」 「そしてブライダルヴェール・フォールで、添乗員の岡島氏は朋子さんにも同じような花嫁のヴェール伝説を語り、同じように愛の言葉をささやいていたかもしれません」 「………」 「結婚という形で実を結んだのは瑛子さんのほうでしたが、朋子さんも岡島氏をあきらめきれなかった。そういった魅力が彼にあったんでしょうね。そして岡島さんも、あなたに永遠の愛を誓うほど誠実ではなかった。むしろ朋子さんといっしょに、あなたを裏切るスリリングな不倫を楽しんでいた可能性だってある」  氷室の推理が進むにつれて、瑛子の大きな瞳《ひとみ》がくやしさで揺れた。 「そんな状況のときに、あなたに巨額の遺産相続という事態が降って湧《わ》いたのです。すでにあなたに対する気持ちが醒《さ》め、高橋朋子さんのほうに比重を移していた岡島氏は、取れるものだけ取ってあなたとサヨナラしようと考えた。ただしその第一段階では、殺人などという無謀な発想はなく、あなたに落ち度がある形での離婚を成立させようと考えた」 「それが私の精神状態をめちゃくちゃにする作戦だったんですね」 「そうです。その切り口として、岡島氏は学生時代に知った五十年前の惨劇を利用しようとした。呪《のろ》われた客室に泊まったがゆえに、あなたに悪霊が取り憑《つ》いたという設定であなたの恐怖心をあおり、その後も次々に奇怪な現象を引き起こして瑛子さんの精神を揺さぶる作戦だったんでしょう。しかし、その最初の実験では、あわや加湿器の存在がバレそうになった。なぜかといえば、アルコールの霧を噴霧している最中に霧笛が鳴り出したからです」 「霧笛……」 「そうです」  氷室は、真剣さを強めた口調になった。 「思い出してください、瑛子さん。ロンドンでの第一夜、タワーブリッジからロンドン塔へとたゆたう無気味な夜霧を見せられたあと、あなたは夢の中でも濃密な霧に包まれ、いつしかそれが赤毛の女の口から吐き出される奇妙な白い煙に変わっていった。岡島さんから聞かされたむごたらしい殺人事件の話が、夢のストーリーづくりに影響していたのです。そしてあなたは恐ろしさのあまり金縛り状態となった」 「はい」 「ところが、もっとつづくと思われた恐怖の時間は、突然中断されてしまいます。甲高い笛の音が延々と響き渡ったため、あなたは目を覚ましてしまったのです」  そこで氷室は、長い脚を組み替えた。その拍子に病院のスリッパの一方が床に落ちて、ぺたんと気味の悪い響きを立てた。 「その話を最初にうかがったとき……」  スリッパを履き直して、氷室はつづけた。 「私は、その笛の音は、あなたの心身に異常を起こす霧の発生と関連していると思っていました。まだ超音波加湿器という着想に思い至らなかった私は、岡島氏が何かの必然性があって夜中に湯気を立て、その湯気があなたにふりかかって霧のイメージを作りだしたのではないかと考えた。たとえば沸騰すると笛が鳴るヤカンなどを思い浮かべたりもしてみました。しかし、私のその推理の方向性は大きな過ちがありました。もしも深夜、岡島氏が瑛子さんに恐ろしい悪夢をみさせる作戦を実行しているとすれば、音の要素は邪魔です。少なくとも甲高い笛の音なんてね」  じっと自分を見つめる瑛子の大きな瞳を見返しながら、氷室は言った。 「くすくす笑う声が壁越しに聞こえるとか、ミシミシと天井がきしむとか、パキンパキンとラップ音が鳴るとか、そういう化け物屋敷仕立ての音なら、それは大いに効果的だったでしょう。けれどもあなたが耳にした音は、やたらうるさいだけだった。最初は霧笛のイメージからシャーロック・ホームズの世界などを思い浮かべ、悪夢の道具立てになりかけたかもしれないが、あまりにも単調に鳴りつづけるので、けっきょく目を覚ましてしまった。そうですよね」 「ええ」 「つまり、その音のおかげで、あなたに悪夢をみさせる実験が中断してしまったんです。だとしたら、謎《なぞ》の笛の音は岡島氏が意識的に立てたものではない。彼にとっても、そんな音が響き渡るとは予想もしていなかった。だからあわてたんです」 「あわてた?」 「だってそうでしょう。あなたが目覚めたとき、岡島氏はベッドから抜け出していた。そして、あなたが呼ぶ声を聞いてベッドのそばに駆け戻ってきた。じゃあ、彼はそのとき何をしていたか? 加湿器という道具が明らかになったいま、その答えを求めるのはたやすいことです。いきなり鳴り出した甲高い音にびっくりした岡島氏は、それで瑛子さんが目を覚ますに違いないと思い、枕元にセットして作動中だった加湿器を急いで隠したんです。タンクの中に入れておいたアルコールも捨ててしまわなければならない。だから彼はバスルームにいた」 「じゃあ、その音はどこから出ていたんです」 「目を覚ました瑛子さんのところに駆け寄ってきた岡島氏は、銀色をした何かを急いでパジャマのズボンのポケットに押し込んだでしょう。それが音の発生源ですよ」 「何だったんですか」 「もったいぶるようですが、その答えを申し上げるのはちょっとだけ待ってください。その前に、ロンドンの夜以降、あなたを悩ませつづけた精神的な変調について考えてみたいと思うのです」  氷室は瑛子に気を持たせたまま、彼女の心理面の問題に話の矛先を向けた。 「私は、最初の悪夢がアルコールの噴霧によって作り上げたという仮説を立てました。しかし、その後あなたをふたたび襲った悪夢、そして起きているときにすらみてしまう赤毛の女の幻は、もっと別に原因があると考えたほうがよい。それこそドラッグのたぐいが作用しているのではないか、とね」 「でも私は……」 「そんなものを使った覚えはないとおっしゃりたいのでしょうが、あなたが気づかないうちに食べ物や飲み物に入れることは難しくはない。いっしょに行動しているご主人の立場にある人物ならね」 「………」 「幻覚症状を引き起こさせるドラッグは、もちろん日本から持ち込む危険は犯せない。けれども現地事情に詳しい岡島氏なら、入手方法はいくらでもあったはずです。イギリスにいるときはイギリスで、日本にいるときは日本で現地調達した」 「私、知らないうちに薬物を飲まされていたんですか」 「そうでなければ、昼間歩いているときに交差点の真ん中に幽霊を見ますか。突然笑いだしたくなったりしますか」 「………」  瑛子は氷室がしゃべる合間に言葉を挟んだり挟まなかったりした。  だが、黙りこくっているときは、たんにショックを受けて沈黙しているのではなく、むしろ自分が推測していたことを氷室がきちんと論理立てて証明していく様子に驚いているようにもみえた。瑛子の反応に含まれたそのニュアンスを氷室は見逃していなかった。 「岡島氏の作戦は、なにも超音波式加湿器という道具ばかりにこだわっていたものではなかった。あなたの心を歪《ゆが》め、狂わせるためには、薬物混入などさまざまな複合手段を考えていたのです。ただし」  そこで氷室は、辛辣《しんらつ》なひとことを発した。 「当の被害者であるあなたが、いつまでもそれに気づかなかったとは思えないんですけどね」 「え?」  瑛子は、それまでに見せたことのない感情を面に浮かべた。  焦り——  瑛子は何かを言わねば、という姿勢になった。が、それを氷室はサラッとかわして、まったく別の方向へ目を向けた。  照明を落とした病院のロビーで、非常口の表示だけがやけに明るく輝いている。それを見つめながら、氷室は淡々とした口調でつづけた。 「これまでのカウンセリングや電話インタビューで瑛子さんのお話をうかがってきたかぎりでは、瑛子さんは遺産を相続して以来、その金銭的な価値観をタテに、かなりご主人に対して強気な態度に……というか、使用人と蔑《さげす》むような物の言い方をひんぱんにするようになられたみたいですね」 「氷室先生」  瑛子は、ベンチから腰を浮かせるほど顔色を変えた。 「なんですか、それ。すっごい失礼じゃないですか、私に対して」 「夫という立場である岡島真佐之氏がそう感じたであろうという心理を、いま語っているだけですよ」  浮いた瑛子の腰を、またベンチに下ろさせるような静かな声で氷室は言った。 「あなたは岡島氏と結婚しても、どこまでも客と添乗員という関係を崩さなかった。もしかするとお姫様と家来というような関係を保ちつづけられると思ったからこそ、岡島真佐之という人を相手に選んだのかもしれませんけどね。しかし、岡島氏にしてみれば冗談じゃない、という部分もある。結婚したからには妻は妻であって、夫に従うものだとね。彼は彼で男のメンツみたいなものがあったでしょう。その不満が岡島氏の心の中でたまりにたまっている状況で、あなたのほうは遺産相続によっていっそう岡島さんを邪険に扱うことが多くなってきた。そういうぐあいに、おたがいが夫婦を対等と考えず、両者とも自分のほうが相手よりも上の立場だと考えていたら、破滅的なトラブルの到来もそう遠い出来事ではなくなってきます」 「彼を家来だなんて、私、そんな気持ちは持っていません」 「あなたにそのつもりがなくても、岡島さんのほうは男として侮辱を感じることがたびたびあったんじゃないんですか。それが殺意にまで昇華するのに、それほど時間はかからなかったと思いますよ。そして岡島氏は、第一段階から第二段階へと作戦をステップアップさせるのです」  非常灯に目を向けていた氷室は、そこで視線を瑛子に転じた。 「さて、今夜の話に移りましょう」  いきなり話題を換え、氷室は鋭い視線になった。 「気分転換のテニス旅行という名目のもと、岡島氏はついに密室殺人によって妻のあなたを殺害するという計画の実行に出ました。あなたから受けた度重なる屈辱が、あなたに対する激しい憎しみを岡島氏の心に芽生えさせ、その憎しみがついに殺意を産み出すに至ったのです」 「でも」 「しばらく私の話をお聞きください」  氷室は瑛子の反論を封じた。 「おたがいに心の溝が埋められないいまとなっては、テニス旅行といいながら、あなたがた夫婦は、別々の部屋に泊まることが少しも不自然ではなくなっている。その状況は、岡島氏が加湿器を利用した新作戦を実行するのに非常に好都合でした。こんどは毒物を使っても自分の身体《からだ》に危険は及ばないからです。そして、今回岡島氏が加湿器に入れたのは、さきほどあなたがお聞きになったとおり、毒物というよりは取り扱い注意の非常に危険な複数の薬物で、そのうちのひとつが筋弛緩剤《きんしかんざい》でした」  高橋朋子の命を救うために岡島真佐之が打ち明けた薬物の名前はひとつではなく、三つあった。いずれも氷室は名前を聞いただけでその使用目的や、過剰摂取したときの副作用を熟知しているものばかりだった。 「まだ濃度の確認はされていませんが、静脈に注射すればあっというまに心停止を引き起こすほど多量の筋弛緩剤の薬液が、12号室に持ち込まれた超音波式加湿器に投入されていたのです。そのほかにも麻酔医が使う薬液の名前を彼は口にしていました。これから警察はその入手先を調べていくでしょうが、医療関係者が介在しているのは間違いない。正直言って、私も疑惑の対象になっているんじゃないかと思いますけどね」 「真佐之は、いつのまにそんな人脈を……」  瑛子は信じられないといった顔で首を振った。 「お医者さんの友だちなんて、ひとりもいないのに」 「悪事の協力者は友だちじゃないほうがいいでしょう」  氷室は、かすかに笑みを浮かべて言った。 「それこそ添乗員と客の関係で、岡島氏がどんな職業の人と知り合いになっているか、瑛子さんは何も知らないでしょう。そういう一度かぎりのはずの出会いの中に、よからぬ関係が存在していた可能性はじゅうぶんにあります」 「人殺しの手伝いをする人が、ですか」 「岡島さんだって、露骨に殺人の協力という形などで話はもちかけませんよ。ただ、お金で釣って、他人にルール違反をさせることは難しくないでしょう。世の中どんな領域にも、モラルよりもお金が大事という人はいますからね。あなたの相続した巨額の遺産が手に入ることを前提に、予算を惜しまずに悪事を働こうとすれば、かなりのことが可能になりますよ。つまり瑛子さん、あなたは自分のお金で自分の命を危険にさらしていたようなものなのです」  氷室の指摘に、瑛子の顔がこわばった。 「さて、呼吸停止から心停止まで引き起こす能力を持つ複数の薬液を調合した岡島氏ですが、それを超音波式加湿器で霧状にして吸入させるという手段が、はたしてどれほどの効果を及ぼすものかは実験のしようがなかったはずです。つまり、今夜の計画はテストなしのぶっつけ本番だったと思います。こんな方法の殺人は聞いたことがありませんからね。前例がない以上、うまくいくかどうかの保証はまったくなかった。けれども、たとえ失敗しても、加湿器のトリックさえバレなければ疑われるおそれはない。また、うまくいった場合でも、警察がくる前に加湿器さえ隠してしまえば原因不明の心臓マヒで事が済む、と岡島氏は計算していたのでしょう。ホテルの人間にマスターキーで開けてもらう展開になっても、遺体発見のドタバタにまぎれて加湿器をすぐさま外へ運び出す手だてはじゅうぶん考えていたはずです。  そこで岡島氏は、ごく自然な場所に加湿器を置きました。あえて隠そうとはせずにです。二泊三日の旅行のうち第一夜目は、加湿器にはただの水しか入っていなかった。実行はロッジの状況なども完全に把握できた第二夜目です。ルームメイドが清掃するときなどのチャンスにあなたの部屋に入っても、夫婦だから怪しまれることはない。出るときは自動ロックだから鍵《かぎ》も要りません。そして、あなたが最も深い眠りにつくであろう時刻から、悪魔の霧を吐き出す加湿器が稼働するようにタイマーをセットする。  このように岡島氏は完璧《かんぺき》を期して殺害計画の準備を完了しました。あなたの意思で高橋朋子さんが招かれたことも岡島氏にとってはプラス材料だったでしょう。夫婦ふたりきりで事件が起きるよりも第三者がいてくれたほうが、自分のアリバイも強く証明できる。密室殺人の組み立てがいがあるというものです。もちろん岡島氏は、朋子さんには悪魔の計画を話してはいない。朋子さんだって、親友を殺してまで岡島氏といっしょになろうとは思わないでしょうからね。岡島氏は朋子さんをも騙《だま》すつもりで計画を立案したわけです。けれども、実行直前になってアクシデントがふたつ起きた。第一のアクシデントは氷室想介です」  氷室は自分の名前をフルネームで口にした。 「瑛子さんがかかりつけの精神分析医《サイコセラピスト》・氷室想介を軽井沢まで呼び寄せるとは、岡島さんは予想もしていなかった。だから彼は、霧の中をやってきた私を見て、心底びっくりし、同時に非常に迷惑そうな顔をしました。高橋朋子さんなら、密室殺人を病死だと片づける格好の証人になるだろうが、氷室想介ではそうはいかない。かかりつけの心理カウンセラーとして、ロンドンの悪夢にはじまった一連の出来事すべてを把握している氷室の前で、瑛子さんが謎《なぞ》めいた死を遂げたらどうなるか。ああ、これは心臓マヒですね、で済まなくなるのは、岡島氏もわかっていた。だから彼は計画を急遽《きゆうきよ》中止せざるをえなくなったんです」  そこで氷室は立ち上がった。  救急救命室へつながる暗い廊下の果てからは、まだ何の反応も伝わってこない。ガランとした暗いロビーに、氷室と瑛子のふたりは待たされつづけている。しかし、そのふたりの間で、重大なドラマがはじまっていることを、軽井沢署の捜査官も、岡島真佐之も知らない。 「まず岡島氏は、瑛子さんに今夜は同じ部屋で寝ようと誘いました」  スリッパの音をぺたり、ぺたりと響かせながら、氷室はロビーのベンチの間をゆっくりと歩いた。話が長くなってきたために、聞き手の瑛子に刺激を与える意味合いもあった。その氷室の姿を、瑛子は同じベンチに座ったままずっと目で追う。 「今夜はいっしょの部屋でじっくり夫婦の話をしよう、という岡島氏の提案は、夫婦別々の部屋で寝るような仲の悪さを氷室想介に見られるのは体裁が悪い、といった気持ちから出た自然な言葉とも受け取れました。でも、じつはそうではなかった。死の霧を発生させる装置を仕掛けた12号室に瑛子さんを寝かせるわけにいかなくなったからです。ところが」  氷室は歩き回るのをやめ、瑛子のほうをふり返った。 「瑛子さんは11号室への移動を拒否しました」  意味深な間をおいてから、また氷室は歩き出す。 「瑛子さんを移動できないとなったところで、岡島氏は消炎スプレーを取ってきたいなどの理由を作って、なんとか12号室へ入ろうとしました。もちろん加湿器の仕掛けを撤去するために、です。しかし」  また氷室は立ち止まり、ベンチの背に片手を置いて瑛子をふり返った。 「瑛子さんは頑として自分の部屋にご主人を入れようとしなかった」  さっきと同じように、瑛子の反応をじっくり窺《うかが》うような間をおき、また氷室はロビーの中をゆっくり歩き回りながら話をつづけた。 「瑛子さんを12号室から引き離せず、自分がそこに入ることもできない状況になり、岡島氏はあわてました。私がいなければ、強引に12号室へ入っていったかもしれませんが、氷室想介の手前、あまり不自然な態度もとれない。手段に窮した岡島氏はもう開き直るよりなかった。……というよりも、じつは恐怖に打ち震えてしまったというのが真実かもしれません。氷室想介のいる前で、自分の組み立てた密室殺人が自動スタートしてしまうのです。止めたくても、もう止まらない。その自動プログラムが引き起こす結果に怯《おび》えて、岡島氏はやみくもにワインをあおりました。できればワインよりもウォッカのようなもっと強い酒を気を失うまで飲みたかったでしょう。岡島氏がすさまじいピッチでワインをがぶ飲みしたのは、自動密室殺人のアリバイ工作というよりも、現実逃避といったほうがよかったかもしれません。  しかし、岡島氏が泥酔して意識を失ったあと、第二のアクシデントが起きてしまう。それが瑛子さんと朋子さんの部屋の交換です。なんと、瑛子さんを殺したあとに新たな妻として迎えるつもりだった高橋朋子さんが、自動殺人装置を仕掛けた12号室に移動して、逆に瑛子さんは死の罠《わな》からスルリと逃げ出してしまったのです。そして、岡島氏にとってはなんとも皮肉な結末を迎えることになった」  ロビーに並べられたベンチの間を縫って歩きながら、氷室はまた瑛子のそばに戻ってきた。 「瑛子さん、私はですね、高橋朋子さんを救い出した直後まで、彼女は不運なトラブルに巻き込まれたと思っていたんです。酔っぱらった岡島氏のぐあいを心配するあまり、瑛子さんに部屋の交換を申し出た。その結果、思いもよらぬ事態に巻き込まれた、と。つまり、不運な悲劇は朋子さん自身が呼び込んでしまったものだとね。でも、真相は違っていました」 「どういうこと」  瑛子の唇は震えていた。震えてはまずいと本人もわかっているはずである。しかし、震えていた。 「わかりやすく言えば、部屋の交換は朋子さんからではなく、あなたから申し出たことだった。そんなに真佐之のことが心配ならこっちの部屋にきなさいよ、というふうに、夫と親友の不倫を見抜いた怒りをいっぱいに浮かべてね。しかし、あなたの心に実際にあった感情は、怒りではなく計算でした」  瑛子は大きく口を開けていた。自分ではまったく気づいていない様子だったが、瑛子は驚愕《きようがく》と恐怖で口を開けっぱなしにしていた。 「夫婦別々の部屋に泊まるテニス旅行という不自然な設定を岡島氏から持ちかけられた時点で、あなたはある程度、夫の作戦というものがみえていた。しかし、それを知ってあなたは誘いに乗った。夫が薬物を使用してあなたに幻覚作用を起こさせようとしているのに気づき、騙されたふりをして狂った演技をしてきたのと同じようにね」 「………」  瑛子の口がゆっくりと閉じられていった。 「非常に危険な目に遭うかもしれないと承知していながら、あなたがこの軽井沢の旅行計画にウンと首をタテに振ったのは、あなたに逆転のシナリオがあったからです。つまり高橋朋子さんを軽井沢へ呼び寄せ、自分の身代わりにするシナリオが」 「氷室先生!」  叫びながら、瑛子はまた腰を浮かせた。しかし、中腰になった身体《からだ》を脚が支えられない。膝頭《ひざがしら》までが激しく震えだしているからだ。それで瑛子は、またぺたんとベンチに腰を落とした。 「あなたは朋子さんを必死に口説いた。お願いだからきてちょうだいと。きょうも昨日もおとといも平日ですよ、瑛子さん。勤めのある朋子さんを三日も休ませてまで軽井沢へこさせるのは、相当真剣な説得工作があったはずだし、また朋子さんもそれなりの引け目があったから、会社に無理な休暇を申請したんじゃないんですかね。さらにあなたは氷室想介も呼び寄せた。これは何のためかといえば、目の前で起きたすり替え殺人の犯人が岡島真佐之氏であることを私に立証させるためです。実際、すべての仕掛けはあなたを殺すために組まれており、それが自動密室殺人のシステムであるがゆえに、その密室で眠りについた者が誰であるかを選ばず処刑は実行されるのですから、岡島氏は朋子さんに対する殺人罪と、瑛子さんに対する殺人未遂罪の両方で裁かれることになる。その事件の証人として、そしてトリックの構造を見破る探偵役として、私は格好の存在だった。でも私は、さらにもう一段奥の仕掛けまで見破ってしまったということです」 「先生、先生、先生」  片手で胸を押さえ、あえぎながら瑛子がうめいた。 「なぜそんな……」 「なぜそんなデタラメが言えるんですか、とあなたに糾弾される前に、私の推理の根拠を話しておきましょう」  氷室は、瑛子の前に立ったまま言った。 「すべての真相を私に教えてくれたのが『霧笛』でした」 「霧笛?」 「そうです。あなたも聞いた霧の中の笛——それが12号室の真実を私に教えてくれたんです」 [#改ページ]    14 「午前零時ごろ、酔いつぶれた岡島氏を残して、我々三人は外へ出ました。そしてそれぞれの部屋へ引きあげました。私自身がみていたとおり、はじめは朋子さんは13号室へ、そしてあなたは12号室へと姿を消しました」  氷室想介の推理は、いよいよ霧笛の正体へと迫っていった。 「では質問しますが、あなたと朋子さんは何時ごろ部屋を代わったんですか」 「たぶん、一時ごろです」  氷室とは目を合わさずに瑛子が答えた。どこまで真実が暴かれてしまうのか、その怯《おび》えの浮かんだ目をみられたくない様子だった。 「一時ごろ、朋子が電話をかけてきて……」 「そのときあなたはもうシャワーを浴びていましたか」 「え?」  質問の意味を理解しかねて、瑛子は氷室の顔を見た。 「瑛子さんは、ご主人の吐き出すタバコの煙がきらいでしょう」 「好きじゃないです」 「だったら、寝る前にタバコの臭いのついた髪の毛や身体を洗いたかったと思うのですが」  氷室は、瑛子の隣に腰を下ろした。 「実際、いまのあなたは少しもタバコ臭くありませんしね」 「ええ、シャワーは浴びました」 「どちらの部屋で? 12号室ですか、13号室ですか」 「12号室です」 「朋子さんと部屋を交換する前だったわけですね」 「はい。でもそれが何の関係があるんですか」 「大ありなんですよ。あなたはふだんシャンプーしたあと、ヘアドライヤーを使いますか」 「もちろん」 「どんなに眠いときでも、寝る前に髪を洗ったら必ず乾かすんですね」 「そうしないとへんな寝ぐせがついて髪の毛が傷みますから」 「だったら、今夜もそうしたわけですね。シャワーを浴びてシャンプーをしたあと、濡《ぬ》れた髪の毛をヘアドライヤーで乾かした」 「はい」 「それも12号室でやったんですね」 「そう……です」  口ごもった瑛子に、氷室はすかさず突っ込んだ。 「違うならいま訂正してください。髪を洗ったのは12号室だけど、ドライヤーを使ったのは13号室に移ってからだったなら、そういうふうに」 「いえ、髪を乾かしたのも同じ部屋です」 「そのあとで、部屋を交換することになったんですね」 「そうです。朋子から電話がかかってきて」  瑛子はしきりに高橋朋子のほうから部屋交換の申し出があったと主張したがっていたが、氷室は相手にしなかった。 「ではそのとき、朋子さんはどうだったんでしょう。彼女の髪の毛からも岡島氏が吐いたタバコの臭いは消えていましたから、事件発生前にシャンプーしていたのは間違いないと思うんですが」 「彼女もシャワーを浴びたあとでした。でも……」 「でも?」 「朋子は私とちがって、ブロウするとき以外はドライヤーを使わない主義なんです。ドライヤーの使いすぎは熱で髪を傷めるから、お風呂上がりはタオルドライだけのほうがいいと言って」 「なるほど、それぞれポリシーが違うわけだ。ということは、部屋を交換するとき、朋子さんの髪はまだ生乾きの状態だったかもしれませんね」 「たぶん」 「だけど、彼女の場合はそのあとドライヤーで乾かさずに寝てしまう」 「そうです」  それで朋子を抱き起こしたとき、髪の毛がしっとり濡れた感じがしたわけだと氷室は理解した。 「細かなところまで教えてくださって、どうもありがとうございました」  満足げな氷室の挨拶《あいさつ》を聞き、瑛子はますます不安げな顔になった。 「さて、場面を午前三時すぎに移しましょう。ロッジがどんどん深い霧に包まれていったころ、突然ピーという長い長い笛のような音が聞こえました。ちょうどそのとき、私は気分転換のためにベランダの戸を開け放っていたので、よく聞こえました。それが自分の真下の部屋——12号室から響いてくるのは間違いありませんでした。ところが、実際に部屋の中に入ってみると、いったいどこでそんな音がしたのか見当がつかなかった。ただ、朋子さんを救うのに必死になっている最中に、私は非常に興味深い光景を目にしました。それがデスクのコンセントにつながれた携帯電話の充電器と、それから湯沸かしポットです」 「………」  瑛子は何のことかわからぬ表情で眉間《みけん》に皺《しわ》を刻んだ。 「べつにその湯沸かしポットが笛の音を立てたとは思いませんでした。たしかに沸騰完了のときに、たいていのポットはピーッと鳴ってそれを知らせますが、私やあなたが聞いたような長い長い音は発しません。長くてもせいぜい四、五秒でしょう。それに、その湯沸かしポットは、沸騰しているどころか、ちゃんと電源コードが差し込んであったにもかかわらず、保温ランプも沸騰中のランプも点《つ》いていなかった。ポット側の差込みもちゃんとはまっていたように思えたのに、です。これはどうしてだかわかりますか」 「知りません、そんなこと」 「答えはかんたんです。デスクのコンセントにつながるメインコードが、その裏側ではずれていたからですよ。はずされていた、と言い換えてもいいかもしれません。私の言っている意味がわかりますか」 「いいえ」 「では、もっとていねいに説明しましょう。事件を通報して救急車と警察がやってきたとき、私は自分の携帯電話を取ってくるために急いで部屋に戻りました。22号室にね。たしかにこれを取ってくるためでもあったんですが」  氷室はジャケットの内ポケットから、銀色をした携帯電話を取りだした。 「しかし私にはもうひとつの目的がありました。真下の部屋とおそらくまったく同じ造りになっている22号室で、ひとつの確認をしたかった。私は鏡の付いたデスクの下にもぐり込み、大人の手が入る隙間《すきま》から、デスクの真裏の壁に三連のコンセントがあることを確かめました。そこにはそれぞれプラグが差し込まれてあった。どこにつながっているのかをたどると、ひとつはテレビ、ひとつはミニ冷蔵庫、そしてもうひとつはそのままデスクの中にコードがもぐり込んでいました。つまり、デスクの表側に設けられた二連の差込口に連結されていたわけです。そのデスク直結のコードだけが、狭い隙間に手を差し入れてかんたんに抜き差しができる位置にありました」  氷室は、並んで座っている瑛子の横顔に目をやった。  彼女の瞳《ひとみ》は、にじんだ夜間照明を映し出す廊下の果てを見つめていた。 「もうおわかりですね、瑛子さん。12号室のデスクに置かれた湯沸かしポットは、その裏側でメインコードが壁のコンセントからはずされていたから、点灯していなかったのです。ご承知のとおり、最近の湯沸かしポットは電源コードがはずれていれば保温ができないのはもちろん、ポンプが作動せずにお湯を出すことすらできません。朋子さんはその異常には気づかなかった。その証拠に、彼女は携帯電話を充電するために急速充電器をつないでいます。しかし、そちらにも電気はきていないんです。  ふだんの朋子さんなら、職業柄そのことがすぐ目に留まったでしょうが、時間も時間だったから、彼女は電源をオンにしたままの携帯電話を充電器に載せました。バッテリーの残量はわずかだったけれど、寝ているうちに充電されるから、わざわざ電源を切る必要もないと考えていた。そこには、もしも岡島氏が急性アルコール中毒でも起こして内線電話ではなくケータイで急を知らせてきたら、という事態に備えた配慮もあったでしょう。  けれども、充電器には電気がきていなかった。いま私は、デスクのコンセントに直結するコードが壁からはずされていたと申し上げましたが、たんにはずされていただけではなかった。そこに別の電源プラグが差し込まれていたのです。加湿器につながる延長コードのプラグがね」  氷室はそこで口をつぐんだ。  救急救命室のほうから、何か騒がしい雰囲気が聞こえてきたかと思ったからである。しかし、耳を澄ませても何も聞こえない。掛け時計が動くチッチッチッという微《かす》かな音が耳につくだけだった。  そこで氷室はまた話を再開した。 「瑛子さん、あなたは12号室でシャワーを浴び、12号室でヘアドライヤーを使ったとおっしゃいました。しかし、私自身も頭を洗ってドライヤーを使ったから知っていますが、あそこのロッジはバスルームの中ではドライヤーのような大容量の電気製品は使えない。鏡付きデスクに腰掛け、そこのコンセントにプラグを差し込んで、鏡に向かいあって髪を乾かすようにできている。あそこからしかヘアドライヤーの電源は取れないし、まさにそこで使った形跡が残っていた。しかしおかしいですよねえ、そこに差し込んでも電気がこないのに、なぜあなたはドライヤーが使えたんです?」  氷室の問いに、瑛子は答えられなかった。 「じつはあなたは、すでにその時点で岡島氏の仕掛けに気がついていたんです。枕元に置かれた加湿器から延長コードを経て、デスク裏の三連コンセントにプラグが差し込まれていることをね。そこであなたは、まずその加湿器用のコードを抜き、代わりにデスクにつながるコードを差し込んでヘアドライヤーが使えるようにしました。その時点で、湯沸かしポットのランプは、沸騰中か保温中のサインが点灯したはずです。そして髪の毛をきちんと乾かしたあと、あなたは壁のコンセントのいちばん下にあるプラグを抜き、また岡島氏が仕掛けたとおりに、加湿器につながるコードを差し込んだんです。それから朋子さんに電話をかけた。理屈をつけて部屋を交換し、岡島氏の仕掛けがいったいどのようなダメージを人体に与えるのか確かめるために、です」  瑛子は額に手を当て、肩を揺らしはじめた。泣き出したことが氷室にもわかった。 「高橋朋子さんは、やがて12号室のベッドで眠りにつきます。そして彼女の知らぬまに岡島氏の仕掛けた殺人装置が動きだした。枕元から、死に至る白い霧を吐き出しはじめたのです。その一方で、電源をオンにしながら充電器に電気がきていない携帯電話は、どんどんバッテリーの残量を減らしてゆき、ついには警告音を発するレベルにまで底をついてしまった。  瑛子さん、あなたは携帯電話の販売会社にお勤めだった。けれども、その職業ゆえに携帯電話の充電はまめに行なう習慣があって、めったなことでは電源切れなど起こさなかったのではないですか。そして、バッテリー切れの警告音がどれほど大きく、どれほど長く鳴りつづけるものか、意外にも認識されていなかったのではないでしょうか」  氷室は自分の手にした携帯電話のフリップを開き、緑色に輝く画面を涙ぐんでいる瑛子の前に突き出した。 「ロッジに着いた時点で、私は自分の携帯電話がバッテリー切れ寸前になっているのを知って、すぐ電源を切ったんですが、またこうやって入れてみました。こんどはわざと電源切れにするためにね。もうすぐ切れるでしょう。そしてけたたましい警告音が鳴り出すはず……あっ、ちょうど」  言ってるそばから、ピーーーーーーーーと甲高い笛の音に似た音を、氷室の携帯電話が発した。  ピーーーーーーーーと、いつ鳴りやむのかと心配になるほど、長い長い警告音がつづく。 「これが『倫敦の霧笛』の正体ですよ、瑛子さん」  鳴りつづける携帯電話を呆然《ぼうぜん》と見つめる瑛子に、氷室は言った。 「飛行機に乗れば携帯電話の電源を切るというのは常識ですし、客室乗務員のアナウンスでもその旨が伝えられたはずですが、岡島氏は電源をオンにしたまま携帯電話をコートのポケットに入れ、そのコートを客室乗務員に預けたのではないでしょうか。そして成田からロンドンまでおよそ十二時間の飛行を経て、ロンドン市内の宿に着くころ、岡島氏の携帯電話はかなりバッテリーが残り少なくなっていた。そして、ポケットにそれを入れたまま、コートを402号室のクロゼットに吊《つる》した。それが突然鳴り出したんですよ、アルコール仕掛けの加湿器によってあなたが悪夢にうなされている最中にね」  瑛子は、泣きながら片手で口もとをふさいだ。いま初めて彼女自身も『倫敦の霧笛』の正体を知ったという表情だった。 「岡島氏は、自分の仕掛けがあなたに与える影響を観察するために起きてはいたでしょうが、あまりに突然のことで、その音がどこから出ているかわからなかった。だからすぐに止められなかった。ともかく急いで加湿器を片づけ、そして音の発生源に思い当たってクロゼットを開け、コートのポケットにあった携帯電話を取りだした」 「じゃあ、私が目を覚ましたとき、彼があわてて隠そうとしていた銀色のものは」 「携帯電話ですよ」  バッテリー切れの警告音がようやく鳴り終わったところで、氷室はそれを自分の胸ポケットにしまった。 「しかし、今回はこの警告音のおかげで朋子さんは救われたんです。13号室から12号室へ移ったあと、そこで携帯電話を充電しなければと思い立ったおかげで、土壇場で彼女の命が救われる展開になった。と同時に、それはあなたを窮地へ追い込むことにもなったんです。死ぬなら死ぬ、何も起こらないなら何も起こらないと、成功か失敗のどちらかであるべきだったのに、最も中途半端な状態で密室殺人の仕掛けがバレてしまった。その中途半端さは岡島真佐之氏にとっても致命的だったし、その妻である瑛子さんにとっても致命的でした。……ああ、ごらんなさい瑛子さん、あれを」  いままで人の気配すらなかった薄暗い廊下の向こうから、二人の人影がこちらにやってくるのが見えた。そのシルエットは白衣を着た医者ではなかった。背広姿の軽井沢署の刑事たちである。 「どうやら朋子さんは助かったみたいですね。刑事さんのあの足どりをみれば、何もきかなくても私にはわかりますよ。……さてと」  氷室はゆっくりとベンチから立ち上がった。 「署のほうまでいっしょにパトカーに乗せてもらいましょうよ。私も、霧の中を運転するのはもう疲れましたから」       *    *    *  夜が明け、ミルク色の霧がどこかに消え去り、秋の日射しが頭上に輝く時間帯になったころ、やっと氷室は京都で待つアシスタントの川井舞に電話を入れることができた。携帯電話からではない。軽井沢署内の公衆電話からである。 「先生、どうして電話をくださらなかったんですか。私、すごく心配していたのに」  予想どおりの言葉で咎《とが》めてきた舞に、氷室は心からすまなそうに謝った。 「いやあ、ごめんごめん。着いてすぐに連絡しようと思ったんだけど、ケータイのバッテリーが切れちゃってねえ」 「ウソ!」  ぷい、という感じで舞が言い返してきた。 「どうせなら、もうちょっと上手なウソをつけば?」 「ほんとだよ、舞。ほんとに電池がなくなっちゃって……」  絶対信じてもらえないだろうなと思いながら、氷室はつづけた。 「こんどから充電だけは忘れないようにするよ」 [#改ページ]  一枚の写真㈬  ベイカー街221b[#「ベイカー街221b」はゴシック体]  ロンドンといえば、これしかないだろう。ベイカー街221b番地——シャーロック・ホームズとワトスン博士が一八八一年から一九〇四年まで住んでいた場所である。  コナン・ドイルがシャーロック・ホームズを世にデビューさせた当時、ベイカー街は85番地までしかなかったため、221bはロンドンっ子なら誰でもわかる架空の番地だった。いわば銀座十丁目みたいなもんである。ところがいまでは、架空のはずの番地が現実のものとなってしまった。左の写真のシャーロック・ホームズ博物館のあるところがそれ。もちろん正式な番地表示は別。だけど、建物には堂々と221bの青い番地プレートが掲げられているし、この博物館の公式ホームページでも博物館の住所は当然のように�221b Baker Street"となっている。  博物館は一階がレストランとショップで、ここで販売されるホームズの公式グッズにも�221b Baker Street"のシールが貼《は》ってある。このシールがいわば真正品である証明となっているわけだ。ちなみに私は、ここでホームズものの登場人物をかたどったチェスを買った。 (画像省略)  で、二階がごらんのとおり、著作物の描写に忠実に基づいたホームズの書斎となっている。さわるな・撮るなと、やたら禁止ばかりしている日本のミュージアムと違って、ここは撮影自由。そして、テーブルの上に置いてある「ホームズご愛用」の帽子のたぐいも自由にかぶってよい。私もシルクハットにパイプくわえて、この椅子《いす》に座って記念のスナップを撮ったのだが、それはホームズというよりチャップリンのようなアホっぽいショットになったので、ここでの掲載は見合わせておこう。  このシャーロック・ホームズ博物館を訪れたのは一九九六年の八月である。それから四年後のことし(西暦二〇〇〇年)六月に、アメリカ合衆国のヨセミテ国立公園を訪れたとき、そこにあるブライダルヴェール・フォール(花嫁のヴェール滝)にまつわるロマンチックな言い伝えを聞き、ロンドンの夜霧とヨセミテの滝の水煙を組み合わせる構想を得て、本編の基本骨子ができた。  書きはじめたのはサンフランシスコのホテルで、それから成田へ向かう飛行機の中でもずっと愛機Vaioを叩《たた》きつづけ、バッテリーが切れたら長時間駆動のウィンドウズCEマシン・モバイルギアに切り替えてキーを打ちつづけ、成田から東京へ向かう成田エクスプレスの時間待ちの間、ホームのベンチでも打ちつづけ、特急列車に乗り込んでからも車内で延々打ちつづけ(ここまでくると恐《こわ》いもんがあるな)、そして仕事場に戻ってからも打ちつづけ、最近の私にしては珍しく二週間ほどで書き上げてしまったのが本作である。  それにしても、じつにひさしぶりの「ワンナイトミステリー」である。なんたって三冊同時に出したのが五年前だもんね、ということで、私もあまり年をとらないうちに、もっともっとこのシリーズを出そうと思っているきょうこのごろである。 角川文庫『「倫敦の霧笛」殺人事件』平成12年8月25日初版発行